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遅れてきた突っ込み
書きたいことは山ほどあるけど、暇がない。 だから、多分、どれも旬を過ぎた話題ばかりに なりそうなブログ。ここでのハンドルはたか号ですが、小説などはgatsutaka名で書いています。
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白翼のポラリス感想


カバーイラストを見た時点で犬村小六さんの「とある飛空士」シリーズを思い浮かべたのは私だけではないでしょう。
このブログでの感想 → カテゴリーとある飛空士
読んでみて「とある飛空士への追憶」に似た展開であることに驚いたのも私だけではないでしょう。
本作の感想を書くに当たっては、まずこれに触れなければなりません。
ついでに言うと「天空の城ラピュタ」を彷彿とさせる要素も。

でもまあ、それはいい。
創作は常に先行作品との競合であって、それを凌駕するものを出せば賞賛されるし、及ばなかったら消えていくだけのことなのですから。
作者さんのツイッターアカウントを犬村さんがフォローしてるしね。
という私の考えを示した上で感想本文に入ります。

不満点が山のようにあります。

最初の1/4までは「どこで読むのを止めようか」ばかり考えていました。
本作と直接関係ありませんけど、とにかく最近は外れが多い。
縁と直観に頼る部分があるとは言え買うまでにある程度吟味はしているのに、読み始めて途中で投げる本、実物を手に取っただけで読む気が失せる本が多くなってきました。
私の部屋にはそんな本が死屍累々です。
本作もその一つになる可能性がありました。

まず、全体として文章に締りがなくてぬるいという印象があります。
少し文才のある高校生辺りがちょっと頑張って書いたものという感じです。
若い主人公シエルの一人称語りだからそうなるのかもしれません。
それでももっときりっとした文章にできるはずです。
作者さんのプロデビュー作ですから、これは今後に期待するしかありません。
あと、章の切り替わりのところでの唐突感が強かったです。
もう少し上手にできないかなあ。

そしてこれは大きいのですが、後半でシエルの心情描写がぐだぐだぐだぐだ続くのが嫌でした。
シエルの内面の成長を描きたかったのだと思います。
であっても無駄な(物語の中で言えば的外れな)描写が多過ぎます。
物語の進行が一時的とはいえ妨げられるのでイライラするのです。
但しそれを嫌うのは私の個人的な嗜好に過ぎません。
私とは逆に好ましいと感じる読者だっているでしょう。

またシエルのキャラが私の好むスタンダードから若干ずれていることも気になりました。
完全には感情移入できなかったのです。
この点は少し惜しい。
スタンダードと言っても「かくあれかし」という具体的なイメージはありません。
どちらかと言うと「なかれかし」、つまりこういう性格やものの考え方感じ方は嫌だなあというネガティブな基準です。
自分の周囲や社会に対して斜に構えているとか、考えるだけでなかなか行動しないとか、悪い意味での諦観を持っているとか、妙に固くて融通が利かないとか、そういうこと(シエルがそうだと言っているのではありません)です。
シエルの場合は、うーんどうだろう、成長過程にあるから仕方ない部分かなあ。

不満点はとりあえずここまでとします。

ステラはどうかと言うと、うん、なかなかいいキャラだと思います。
彼女の方は最初から最後まで真っ直ぐな性格で殆どブレがありません。
この点では「とある飛空士への追憶」のファナと真逆の存在です。
追憶はファナの成長譚でもありますからね。
ただまあ、ステラはあれほどの巨乳キャラにする必要はないよね。
(これは本当に私の個人的好みの問題です。ラノベやコミックのキャラによくある「物理的・生物学的に有りえない巨乳」を私は受け入れられないのです。むしろ嫌悪感を覚えます。ステラはギリギリの線ですけど)

世界観は独自で面白いと思います。
確かに陸地が少ないと資源の争奪が問題になるでしょう。
船国で出た廃棄物は海に捨てるのでしょうか。
惑星系として成り立つかどうかを科学的に考えて否定するのは野暮だな。

飛行機の名前にさりげなく星の名前を使ってあるとことは好印象。
でもポラリスは潜水艦発射弾道ミサイルかな。w

ストーリーは、一巻物の物語としてコンパクトでよくまとまっていると思います。
無駄な部分が殆どなくて面白かったです。
それ故に上記したぐだぐだ心理描写が惜しいんだよなあ。

それとまだ何かが足りない。
重層さ、高尚さ、深長さ、うーん、違うなあ。
単純に言えば軽いんですね。
いや、勿論それぞれの場面は深く検討してあって軽いなんて言うのは失礼ですけど。
これ多分文体からくる印象なのかもしれません。

そして結末。
ネタバレを防ぐために具体的には書きませんけれど、今後の展開を予想させるあのエンドはいいですね。
追憶のファナが……。 あ、ここ書くの止めておきます。
止めるまでもなく本作の序章を読めば私が何を言いたいかは分かる人もいると思います。

次巻を心待ちにしておきます。

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僕が愛した全ての君へ 君を愛したひとりの僕へ 感想
この感想は8月(2016年)には書き始めていたのに、あれこれ追加しているうちにもう12月になってしまいました。
まだ書き足りないけれど、とりあえずここまでで載せてみます。



以下ではタイトルを省略形で表示します。
僕が愛した全ての君へ  = 「僕が」
君を愛したひとりの僕へ = 「君を」



いやあ面白かった。

自分と思考の方向性が同じ作者さんの作品を読むのが一番楽しい。
思考の方向性が同じとは言ってもそれはベクトルの凡その向きのことであって、長さは当然違います。
どっちのベクトルが長いかという問いには意味がありません。(ということにしておこうw)
本作品世界のことに限定すれば乙野さんのほうが遥かに長いのは言うまでもないです。

遥か向こうにあるそのベクトルの終点に向けて、思ったことを投げてみます。
これは「批判」とか「いちゃもん」などではなくて、好意的な意味で「思考して楽しんでいる」のだとご理解下さい。
このような思考は本作品で描かれている世界を十分理解した上でするべきでしょうが、結構読み落とし(読んではいるのにもう覚えていないこと)があるはずなので、話がかみ合わない部分は笑って読んで下さい。


・並行世界が整数で量子化されている。その1
 000と001の間に世界はないのか。
 IP端末に小数点以下の部分もあってその表示が変化しているという記述があるが、小数部分が何を示しているのかの説明はない。
 小数が世界としての意味を持っていないのであれば、000と001の差1が量子となる。
 虚質空間が物質空間と相互作用しているのだからその量子のスケールは物質世界での量子スケール(例えばプランク定数なら6.6x10^(-34))と似た値になるはず。
 であれば000と001の世界の差異はマクロ(人間のサイズレベル)では殆ど分からないのではないか。
 朝食の米・パン程の差異が量子1とは思えない。

・並行世界が整数で量子化されている。その2
 000からIP∞の方向への片側一次元だけというのは違和感あり。
 例えばサイコロを振ると、最低でも同時に6つの世界が生まれるはず。
 であれば、例えば000世界を中心とする円(二次元)もしくは球殻(三次元)として並行世界が広がっていると考えるほうが自然ではないか。
 この場合広がりは連続ではなく、整数で量子化されていてもいい。
 当然IPも二次元、三次元の量になる。
 二次元で考えると、(000,000)世界の隣には8つの世界が存在する。
 (-01,001)(000,001)(001,001)
 (-01,000)(000,000)(001,000)
 (-01,-01)(000,-01)(001,-01)

・並行世界が整数で量子化されている。その3
 000(=X)の隣が001(=Y)、その隣が002(=Z)。
 ではY(=000)の世界から見たX、ZのIPはどうなる?

・並行世界が整数で量子化されている。その4a
 000世界で発生した選択が新しい世界を誕生させるということ?
 であれば隣の001世界は常に移ろっていくということになる。
 001世界で発生した選択が産む世界と000世界との関係はどうなる?

・並行世界が整数で量子化されている。その4b
 そうではなく全ての世界が宇宙開闢のときに同時に生成されて、その後は増えたり減ったりせずある意味静的に存在してるとの解釈はどうか。
 近しい世界では発生する事象が殆ど同じか似通っているとしても、長い時間のうちにその差異は大きくなってくるはず。
 だからIPが1つだけ違っても百数十億年の差異の累積は「全く違う世界」を作ってしまうのかもしれない。

・IPが離れることで差異が大きくなる。(米・パンを量子1としたとき)
 35程度の距離で婚約していない世界、恋人ですらない世界になるかなあ。
 また、誰か、例えば暦に着目したとき、ある時点で暦がいる世界と、既に死んだ世界と、そもそも生まれなかった世界が存在するはず。
 それとは別に、和音がいる世界と、既に死んだ世界と、そもそも生まれなかった世界も存在するはず。
 それらの世界はマトリックスを構成するが、距離関係はどうなるのか。

・隣り合う世界は「人の移動」以外で影響を与え合うことはないのか。
 あるとすれはその速度は?
 速度が有限なら、ここでも光速の壁が現れたりして。
 その場合ある程度以上の距離がある世界同士は互いに無関係ということになる。
 人の移動の速度はどうか。移動が一瞬と言っても0ではないはず。
 でも虚質空間での距離とか時間とかは普通の世界のそれとは性質が異なるのかな。

・意識と身体の関係
 これ結構重い問題かもしれない。
 本作での並行世界移動は意識だけが入れ替わると説明されている。
 意識だけの移動では、脳内の血流、シナプス、神経細胞間の信号は移動しない。
 では移動前後で記憶や思考は継続できるのか、そもそも意識とは何か、という問題が発生する。
 シフト先で事件や事故で身体に重大な損傷を受けたときに死ぬのはどっちなのか。
 シフト先での自殺はどうなる? 自殺したほうの意識が死に、片方は元の世界に戻れなくなる?

とかなんとか。いやあ楽しい。
ここに書いた項目は全て「僕が」だけを読んだ状態で考えたものです。

乙野さんはこんなことは当然承知の上で、物語の世界観を読者に分かりやすく提示するために余計な枝葉を落として「デフォルメ」したのではないかと思っていました。
だから「君を」で栞の事故が出てきたとき、ああやっぱりと思いました。

私は2冊同時に買って、「僕が」の後に「君を」を読みました。

読み終わって、本作は発想としてはまず「君を」ありきで、その後に「僕が」が作られたのだろうなと感じました。

最初に書いた「思考の方向性が同じ」ということは色々な意味を含んでいます。
その一つは「独自に作り出した世界観を舞台とした物語において、その世界の成り立ちを必要な範囲で説明する姿勢がある」ということです。
論理的に成り立つかどうかは問題ではありません。
矛盾を含んでいたり、破綻があっても構わないのです。
方向性が全然違う作者さんの作品を読んだらどうなるかは、こちらを参照して下さい。
 →  ぼくは明日、昨日のきみとデートする 感想


ところで、「僕が」の序章を読んだとき、私は萩尾望都さんの「ヴィオリータ」を思い浮かべました。
ヨハンが時空を超えてヴィオリータという少女を追い求める幻想的な物語です。
死期を迎えたヨハンの部屋に幼い孫娘のヴィオリータが訪れて「ヨハン、寝てらっしゃるの?」と尋ねます。

「僕が」ではレオタード像の下で車椅子に乗っている年老いた暦の前に少女が現れて謎の言葉を告げます。
何となく似ていますよね。

なので本作全体に「ヴィオリータ」のようなリリカルな雰囲気を想像していました。
しかし実際にはかなり異なっていました。
むしろリリカルの真反対のシャープさを感じました。
各章が年代で区切られていて、エピソードとしてはそれぞれで完結しているせいかもしれません。

とは言え、大きく俯瞰して考えれば、本作も全体としては詩情を湛えていると見なすことも有りかな。

「僕が」の000世界と「君を」の000世界は暦の思いによって強く結び付けられています。交差点の幽霊と化して10代の姿のままの少女栞と、栞を救うために人生の全てを捧げた年老いた暦。
彼が見出して実行した解決方法が、本来出会うはずのなかった「僕が」の暦と栞(両方の世界の栞)を引き合わせました。
この構造が巧まずして本作にリリカルな側面を与えているのかもしれません。
(乙野さんが狙ってそうしていたのなら、私の読みが浅いだけなのでごめんなさい)


ここで幾つか不満点を挙げておきます。

1)「僕が」の壮年期エピソード

通り魔犯の奥さんが殺された事件は、本作に挿入するエピソードとしては重すぎると思いました。
奥さんに罪はなく、ましてや謝罪に訪れているのに殺されるなんてやりきれない。
動機もその奥さんに対する恨みとかそういうことではありませんよね。
IPロックを持ち出すには殺人というインパクトが必要なのかなあ。
それに社会の反応を考えると、たとえ別IPの別人格者が起こした事件だとしても「暦は状況によっては人殺しを行う危険な人物」と見なされることになりかねません。
これは「ちょっと嫌」でした。

2)「君を」P161

栞の身体が死ぬ場面での暦の心理描写はいらない。
私の個人的な好みの問題ですが、殆ど全ての読者が「何が起こったか判っている」場面でそれを否定する無駄な心理描写がぐだぐだと続くのは嫌いなのです。
その読者の想像とは違う方向に話が進むのならともかく。

あれ? 不満はこれくらいかな。
そうだ、もう一つありました。

本作を貫く原則の一つに「違う世界の同一人物は別人格の別人である」というものがあります。
何だか変な文章になってしまいました。
本作中にもっといい表現がなかったですかね。

これによって並行世界を跨がっての冤罪という概念が出てきます。
犯罪を犯した者が異世界に逃げ、それと入れ替わった犯罪を犯していない人格が罪を問われるということです。
しかしこの冤罪は法的にはかなり厄介かもしれません。
犯人が本来所属している世界Aで犯罪を犯して逃げた場合はまだいいです。
シフトした先の世界Bで罪を犯して元の世界に戻った場合はどうなるでしょう。
犯罪が成立したのはB,犯人がいるのはA。
ではその罪はどちらの世界で誰が裁かれるのか。
Aの犯人をBにシフトして裁くとしたら、死刑の場合はどうなる?
この犯人がさらに別の世界Cで別の犯罪を犯していた場合はどうなるのか。
ある世界では犯罪であっても別の世界では犯罪にはならないように法律が違っている場合はどうなるのか。

科学のエリアはともかく、法的・社会的分野を考えるとちょっと厳しいなあ。


それはさておき。
各世代でのエピソードは面白いですね。

勿論その中でも一番はIP085の和音ですけれど。
シールを貼るなんてアナログな誤魔化しは予想もしていなかったもんなあ。w

暦にとって000以外の和音は「結婚したい和音」ではありません。
この考えが後になって「全ての可能性の和音を愛する」に変わるのですが、それでもそれぞれの和音を別人と見なしていることに違いはありません。

日常において自然現象として発生しているシフトについてはその原因などの説明がありませんでした。
ここではそれを「ゆらぎ」と呼ぶことにします。

お互いの初体験のとき、及び結婚のとき(この「結婚」が式のことなのか、誓約のことなのか不明:まあどっちでも同じかな)暦と和音は相手が000であることに拘ります。
ゆらぎによってしばしば変動するものなのに、この拘りはどういうことかな。
その行為を「精神的な部分における神聖なもの」と捉えているということでしょうか。

でもなあ、ゆらぎの確率を数値化したら、今目の前にいる和音は、例えば
000の和音が84.48%
001の和音が 7.78%
002の和音が 5.59%
003の和音が 1.56%
004の和音が 0.43%
005の和音が 0.12%
・・・ 以下IP∞まで
が混在したシュレディンガーの猫的存在ということになりませんか?
なまじIPを測定して確定できるようになったから故の拘りなのかもしれません。

私がこの世界の住人だったら「IPが近傍なら人格も含めて同一人物」と考えそう。
これを拡張して「全てのIPで同一人物であり、その振る舞いの差は『可能性』の現れ」という考え方も可能です。
これは暦の「全ての可能性の和音を愛する」と似ているけど違うのかな。

==

本作中に明示はしてないけれどこの推測は多分正しいと思うことがあります。

以下の説明では表記がごちゃごちゃになるので、「君を」の暦を暦A、「僕が」の暦を暦Bとします。栞、和音についても同じです。

暦Aは栞Aが幽霊になったあと高校を中退して大学に行かず独学(父親Aや所長Aの助けはあり)で虚質科学を習得しました。
これに対して暦Bは中学の頃から秀才で、あまり勉強しないでも高校では常にトップ、そのまま九大に進学しています。

これは暦Bが生来の秀才だからではないと思います。
勿論父親Bから受け継いだ資質もあるでしょう。
しかしそれだけではなく、暦Aが過去に遡って暦Bと意識だけ合体したからなのではないでしょうか。
暦Aの記憶は消えていますから、その知識もどの程度暦Bに影響しているかは分かりません。
100%ということはないかもしれませんが、あるかもしれません。

そのくらいのメリットがないと、暦Bは巻き込まれただけということになります。
デメリットも考えられませんけれど。

栞B(「僕が」の序章にでてきた老婦人)にとってはどうかなあ。
「名乗るほどの者ではない」を言いたかったのは栞Aですよね。
それを本当に言うことができて幸せな気分になれたってとこかな。

この推測が本当に正しいとしたとき、次のような事態を想起することができます。

想起事態1
暦Bがその死の間際にさらに別の世界で過去に遡って暦Cに合体する。
暦Cがさらに・・・、と繰り返していけば、一人の人間が一生かけて習得した知識を無限に累積していくことが可能になる。
全ての世界で時間(時刻)が同じなのだから、暦Aが過去に行ったその同時刻に暦最終形がどこかの世界に存在していることになる。

想起事態2
暦Bがその死の間際にさらに暦Aの世界で過去に遡って暦Aに合体する。
これによって暦Aと暦Bの間で知の無限ループが形成される。

これをちょっとだけ検証してみたのですが、想起事態1に書いた「無限累積」はかなり難しことが分かりました。

暦Aが生まれたときの知識=0、過去遡及を行ったときの知識=100とします。
暦Aが合体したとき、暦Bの知識=0+100*a (a=同化率、最大で1)
暦Bがその生涯で暦Aに匹敵する知識100を得たとする。
暦Bが過去遡及を行うときの知識=100*a+100=100*(a+1)
暦Bが合体したとき、暦Cの知識=0+100*(a+1)*a
暦Cがその生涯で暦Aに匹敵する知識100を得たとする。
暦Cが過去遡及を行うときの知識=100*(a+1)*a+100=100*(a^2+a+1)
以下同様に、比例係数はaの累乗の和になります。
a=1のときは累乗の和は無限に大きくなります。
しかしa<1のときは、過去遡及を繰り返すと比例係数Σ(a^n,n=0,1,2,...)がある値で止まってしまい、それ以上増えなくなってしまいます。
a=0.9のとき10、a=0.8のとき5、a=0.5のとき2。
つまり1/(1-a)に収束していくのです。
物理現象でa=1はあり得ないでしょうから、「無限の知識」は実現できないということです。
そもそも脳のキャパの問題もありますしね。

想起事態2ではどうなるのか。
考えてみたのですが、分かりませんでした。
A,Bそれぞれ一回の遡及だけで平衡状態になってしまうのかなあ。

==

暦Aは栞Aを連れて過去に行くことで栞Aを交差点の幽霊状態から救い出しました。
それがなかったら、死ぬことのない栞Aの意識は永遠にそこに留まっていたはずです。

そのとき、暦Aの世界の近傍のIP世界ではその世界の暦が同じように幽霊になっている栞を救い出したはずです。
暦と栞が(若いときに出会った)世界では栞は必ず幽霊になっています。
幽霊になった「全ての栞」はこれで救われたのでしょうか。

それとも暦が失敗して幽霊のままの栞がいる世界もあるのでしょうか。

物質で構成されたものは時間の経過、エントロピーの増大によって分解され、いずれは消滅します。
虚質で構成されたもの、栞の意識はどうなんでしょうね。

マチネの終わりに 感想
新聞の広告でその存在を知り、届いてから私としては比較的ゆっくり読み進んで二週間かけて読了。



ここ(このブログ)を何度か目にしたことにある人なら、私がこの小説の感想を書くことがどれほど珍しいか分かってもらえると思います。
最近はマンガかアニメかラノベの感想しか書いていません。

勿論それ以外の本も読んではいます。
でも人に感想を読んでもらいたいという欲求が起こることは稀なのです。

「大人の恋愛小説」に限定すれば、年に一、二冊程度しか手に取りません。
そして読み始めたとしても10ページも進まないうちに放り出してしまうこともしばしばです。
なぜって、つまらないから。(単純に個人的な好みの問題です)

だから私がここに「大人の恋愛小説」の感想を載せ、あなたがそれを読めるのは盲亀浮木・優曇華の花の如し……ってそんな価値はありません。(笑)

正直言って本作も最初の数ページで投げ出そうかと思いました。

天才ギタリストと外国の通信社に勤める美人記者のカップルなんて、その設定だけでお腹一杯という感じです。

それでも読み進めたのは、本作の帯にあった「マチネロス」という言葉がどういうことを指しているか気になったからです。
読み終わることで、その言葉の意味するところは理解できました。理解できたつもりになっています。
投げ出したかった私が、結局最後まで「楽しんで」読んでしまったのですから。

であれば、どういうところを楽しんだのかが感想の核になるのだろうと思います。
しかしそれは書く気になれません。
何だか凄く気恥ずかしいのです。

なので少し違う方向から感想(らしきもの)を書くことにします。

本作を読んでいて最初から最後まで感じたのは現実感の薄さでした。
現実感が薄いというのは、嘘っぽいという意味ではありません。

また、上記したような登場人物のハイスペックのせいでもありません。
それを言い出したら、超能力者とか魔法使いとかが当たり前のように出てくるラノベのほうがもっと現実感が薄いことになります。

自分が面白いと感じる小説を読んでいるときは、どんな奇抜な世界が舞台であっても、その世界を現実のことと感じ、登場人物はその世界の中で生きていると感じています。
但し設定(世界観)やキャラ(登場人物)、そして何よりも文章の巧みさなどの条件が整っている場合に限ります。
お子ちゃま脳じゃないのかと言われればそれまでですが、少なくとも純文学だからとかラノベだからとかいう区別はしていないつもりです。

本作を読んでいると、脚本をきっちり決められた舞台演劇を見ているような気分になります。
演劇に現実感がないと言っているのではありません。
舞台を見るときは、そこに生身の役者さんがいて演技をしています。
その演技に、虚構を現実と感じ(錯覚)させる作用がある場合も存在します。
あれほど様式化された歌舞伎ですらそれを見て涙を流す人がいることがその証しです。

私が本作を現実感が薄いと感じる理由は、言葉で説明するのが難しいです。
敢えて言えば、「緻密過ぎるから」かもしれません。

つまり、時代背景や状況、発生する事件から小道具(スカイプや手足口病なども含む)に至るまで、あまりに緻密且つリアルであるため、逆に現実感が薄くなってしまったのではないかということです。

例えば洋子の母親が暮らしている長崎での描写は、そこに長年住んでいる私から見て不自然な点が全くありません。
それから類推するに、他の場所での場面も恐らく同様なのでしょう。

このように本作は緻密に構築された舞台の上で、緻密に構成されたシナリオに従って登場人物が物語を演じています。
しかしこれは小説なので、生身の役者が演じているのではありません。
芝居は私の頭の中だけで行われています。

それを見ていて(実際には読んでいて)現実感が薄い、つまり虚構を虚構としてしか受け取ることができません。

思うにこれは、ストーリーが出来過ぎているからのようです。

意地の悪い読者である私は、小説を読みながら粗探しをしていることがあります。
本作の場合、「あれっ? これは変じゃない?」と感じた点があたっとすると、大抵の場合そのすぐ後くらいに、私の考えることぐらいお見通しだとばかりに解答が用意されています。

また途中で「もしかしてこういう展開になるんじゃないか」と思いついたことがあるとすれば、作中に「そんな展開にはなりません」ということが暗に言及してあったりします。

それはもう見事なくらい。

読み終わってもう一度冒頭の序を読んだら、読んでいる途中に感じたことの殆どが既にそこに書かれていました。

つまり本作は起こりうるあらゆる事象を網羅的に検討した上で、唯一これしか歩けない道が、それ以外の道につながる分岐路を徹底的に排除した状態で提示してあるということです。

これによって、登場人物が状況と自己の選択に翻弄されながら生きているのを見るという現実感が薄くなってしまったのではないかと思うのです。
彼らはあの世界で悩みながら生きているのではなく、作者さんの掌の上で動かされているだけのようにしか見えません。

その結果何が起きたか。
登場人物への感情移入が妨げられてしまいました。

物語を読んでいて、人物(主に主人公)に対して「あ、そっち行っちゃ駄目だよ」とか。「えー。そんな選択あり得ない」とか、「うん、それ正解。良かったね」とか、まあ色々な気持が湧いてくるものです。
そんな気持ちの振れ、揺れが、本作においては虚しく感じられます。
何を思っても、本作のストーリー以外のルートを「それはありません」と否定されてしまうからです。

二人のラストシーン。
あの結末を運だとか、運命だとか、悲恋だとか、救いだとか、もう何と表現したらいいのか分からなくなりました。
どんな言葉を持ってきても、そぐわないのでしょう。

……とは言え、だから悪いということでは全くありません。

ここまでつらつら書いてきたことは、本作を読んでいて私が思ったことの一つの側面であって、全体としては上にも書いたように「楽しんで」読んだのですから。

一つだけ、本作を読んで良かったなと思うことを書いておきます。

本作の中に「過去は変えられる」という趣旨のことが出てきます。

自分に与えられた、もしくは直面した状況の中で行う選択の連続によって、人生という長いストーリーが形成されていきます。
私は私がこれまで行ってきた選択のうち、重大な局面における選択は概ね間違っていなかったと思っています。
別の言い方をすると、重大局面での選択の半数+1以上がもたらした結果に不満はありません。
選択を行う状況を生み出すまでに自分が行った努力に見合う以上の現状にいると思っているからです。(これ以上贅沢を言ったらバチが当たるってやつ)

だけど、幾つかは明らかに失敗した選択もあります。
その選択はもう変えることができません。

たまにその選択の状況を思い出しては「あのとき……」という、それこそ誰でも考えるような後悔が胸をよぎることがあります。
たまにと書きましたが、いつもかもしれません。

だけど過去は変えられるのです。
それがどういうことかは、本作を読んで下さい。

==

2017/4/23追記

サンデーモーニングに作者の平野啓一郎さんが出演しているのを見ました。
作家さん個人がどんな人なのか、あまり興味がないので調べたりしていませんでした。
さっきツイッターを覗いたら、なるほど。
筑紫哲也さんに死亡宣告されてからウン十年もまだ生き続けているTBS。
その中でも最低部類に入ると思う番組。
番組の意向に沿った発言をする人しか出さないそれに出演して恥じることのない方だったのか。

人物と作品は分けて考えます。

とは言え、作品の底意に何かが見えてくることも否定はしません。
宮崎アニメなどもそうですもんね。

小説 君の名は。 感想
映画見てきました。2016/08/27 9:05の回。さすがに金曜初日の昨日は行けなかった。
映画感想は改めて書くつもりですが、一回見ただけではまだ整理できそうにありません。
一つだけ。
この日記の下のほうに懸念点として声のことを書いています。
特に神木君の声を心配しています。
でもね、今日見た限りでは、私なりの評価として及第点でした。
他の人のも「下手さ」を感じることがありませんでした。
だた、一葉婆さん役の 市原悦子さんだけは逆に存在感がありすぎて、あの婆さんのイメージとは少し違ったかなあと思いました。


2016/8/31
アニメ感想をぽつぽつ書き始めました。  →  「アニメ 君の名は。 感想」

「君の名は。+解説」という検索でこのページを開く人が多くいます。
ここでの解説は小説本の巻末解説のことなのですが、検索する方の目的は多分、時系列の解説などを期待してのことかなと思います。

小説には日付が殆ど出てこないですよね。
それに対してアニメは日付がかなり前面に出てきます。
アニメの記憶を頼りにタイムテーブルを作ってみました。
上のリンクからアニメ感想を開いてみてください


==

映画公開前に出版された「小説 君の名は。」を読みました。
これによって「アニメ 君の名は。」は、ストーリーを知った上で見る初めての新海作品になりました。

巻末の解説に「アニメ 君の名は。」は新海監督のベスト盤だとあります。
直後にそれを否定と言うか、上書きする形で最高傑作だとしてあります。

ベスト盤は、あるミュージシャンもしくはグループのアルバムなりシングルなりに分散しているヒット曲をまとめた物。
つまりある映画を表現するにのベスト盤という言葉を使うのは本来なら誤用です。
しかし「小説」を読んだ私はこのベスト盤という言い方がが妙にしっくりしていると感じました。

以下本稿では「小説 君の名は。」を「小説」、「アニメ 君の名は。」を「アニメ」と表記します。両方含む場合は本作品、一般的な意味で使う場合はカギ括弧なしの小説、アニメとします。

「小説」と「アニメ」のストーリーが100%同じということはないでしょう。
でも「アニメ」をまだ見ていない現状では、「小説」≒(nearly equal)「アニメ」と仮定して感想を続けます。

この物語の中には、「ほしのこえ」「雲の向こう、約束の場所」「秒速5センチメートル」のキーが含まれています。
 「ほしのこえ」 時間で隔てられた二人
 「雲の向こう、約束の場所」 失いたくないのに失ってしまう記憶
 「秒速5センチメートル」 ラストシーン
もしかすれば「星を追う子ども」や「言の葉の庭」、「彼女と彼女の猫」も何等かの形で入っているかもしれません。
たとえ全てが入っていないとしても、上の3作品が恐らく意図的に織り込まれていることから、本作品をベスト盤と呼んでも間違いではないと思います。

「小説」の描写の中に、「秒5」特に第三話で多用されていたモンタージュ風の風景切り取りが見られます。(モンタージュという用語をここで使って正しいのかは不明w)
その部分を読むだけで、「アニメ」での描写が、まだ聞いていない音楽とともに頭に浮かんできました。

そしてラストシーン。
終盤を読みながら、私は瀧と三葉は出会うことができないのではないだろうかと想像していました。
あのラストには少し焦らされましたね。w

ということでベスト盤であることには既に納得しました。
最高傑作かどうかは「アニメ」を見てから判断することにします。


読了して、自分で不思議だなと思ったことがあります。

本作品は男女の心の入れ替わりを扱っています。
作品中では夢を見ていると表現されています。

呼び方はともかく、若い男女の入れ替わりの物語は、過去にそれこそ五万と作られています。
入れ替わりのきっかけは大抵の場合は「ぶつかり」です。
頭と頭がぶつかって入れ替わるなんて、よく考えてみれば全く納得できるはずないのですが、ファンタジーの超常現象として受け入れています。
多くの場合、入れ替わり自体ではなく、入れ替わったことによるドタバタの方に主眼が置かれていますしね。

本作品の場合は、物理的接触が入れ替わりのトリガではありません。

では何がきっかけだったかと言えば、三葉はともかく瀧にはそれが全くありません。
ある朝目が覚めたら三葉になっていたのであり、完全に巻き込まれただけです。

三葉のほうにはまだかろうじて理由付けがあります。
それは例の彗星が前回(1200年前)来襲して村に被害をもたらしたときから、宮水神社の巫女の血統に受け継がれてきた危機回避の方策ということです。
何世代にも渡って必要のない無駄な入れ替わりを繰り返してきて、ようやく三葉の代でそれが役に立ったということです。

しかしトリガは不明(先祖でも起きていたことを考えると彗星の接近はトリガではありません)だし、入れ替わりの相手がなぜ瀧なのかは全く分かりません。

現時点での私の理解は以下のようになっています。
時点A:彗星災厄の前日、三葉は東京に行って中学生の瀧に髪紐を渡した。
時点B:Aの3年後、高校生の瀧は三葉と入れ替わるようになった。但しその三葉は時点Aよりも前の三葉である。

この理解自体は間違っていないはずです。
ムスビの紐を受け取ったことが瀧にとってのトリガになるのかもしれません。
しかしこれでは因と果が円環になってしまい、なぜ瀧なのかの説明はできないのです。

さらに、なぜ時間がずれているのか、なぜ記憶が消えるのか、なぜ物理的な記録が消えるのか(電話やメールが繋がらなかった件は説明可能)といった色々なことも全く説明されていません。
とてもあやふやな多次元宇宙的解釈で説明できないこともないけれど、少し考えただけで破綻しそうです。
なぜなら、時点Bで三葉は既に死んでいるからです。

ここに書いたのは読了してからざっと考えたことです。
深く検討したのではありません。

それでもここまでもやっとしていると、普通なら不満を感じます。
気持ちの座りが悪いからです。

現に昨年書いた「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」の感想では、異世界移動の理屈が全く説明されていない点をかなり悪し様に書きました。
また2つの世界で時間の向きが逆になっている理由も全く説明されていません。
そういう状況下での恋愛を描いているだけであって、理屈なんかどうでもいいと言われればそれまでです。

読んでいるとき、異世界移動は何等かのテクノロジーによるのだろうと思っていました。移動に当たって細々とした取り決めがあったからです。
であるならば、少しでもいいから説明が必要ではないかと思ったのです。
だって、少なくともヒロインはその異世界移動について知っているのですから。

尚、その感想はGoogleなどの検索で上位に表示され、また小説自体が「泣ける」と評判になって、映画化まで決まりましたので、現在でもかなりの閲覧があっています。 → ぼくは明日、昨日のきみとデートする 感想

それに対して、本作品では納得のいく説明がなされていないのに、それが全く気になりませんでした。
不思議だなと思ったのはこの点です。
最初から超常現象的に描かれているせいかもしれません。
主人公二人ともその原因を知りませんしね。

ともあれ「アニメ」の公開が楽しみです。
何回見に行きましょうかね。

「アニメ」に関して一つだけ懸念点を挙げておきます。
それは声優さんの問題です。

色々なアニメ映画で「作品の質を落とした戦犯」扱いされている神木君を起用したのはなぜでしょう。
サマーウォーズにしろ、とある飛空士への追憶にしろ、決して上手いとは思えません。
むしろ下手だと思います。

判ってはいます。
広報対策ですよね。

テレビメディアは、俳優・女優が起用されていないアニメを殆ど無視します。
ハリウッド映画の日本語吹き替えに誰それが起用されたとか、映画の内容、出来不出来とは全く関係ないことしか報じません。
映画の紹介というより宣伝が目的ですもんね。
そして、公開直前のバラエティ番組でのこれでもかってくらいの「お知らせ」。

新海監督がメジャーになって、作品作りも大がかりになってくると採算が課題になるのは当然でしょう。
そのための対応をするのも仕方ない。

私が気に入った作品だったら素人声優の下手さはあまり気になりません。
気にならないというか、それを差し引いてもお釣りがくるような作品ならいいのです。
「コクリコ坂から」の長澤まさみさん(本当に下手クソ)などがそうでした。

今回の神木君はどうなんだろう。
そこだけ、とても不安なんです。

2016/07/27の朝のNHKニュースで7:25頃から紹介していました。
それ(録画)を見て、まだ小説を読んでいない娘が「ここまでネタバレする?」と
とても怒っていました。
でも私から見ると全然ネタバレとは思いませんでした。

その中で少しだけ瀧(神木君)の声が聞こえました。
予想通りだった。orz

あぁああ。

まあ、最初からそういうものだと覚悟して見ることにしましょう。

尚、娘は8月頭からドイツに半年間の留学に行くので、劇場では見れません。


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映画を見たら、また改めて感想を書きます。
多分今回よりもずっと長く。

これまでに書いた秒5関係の文章はこちらです。  → カテゴリー秒5




君の膵臓を食べたい 感想
2017/07/31 追記
 映画には7/29に行きました。
 感想は現在書いています。
 UPするのは週末かな。

一言だけ書いておこう。
 「桜良、どうして踊らなかったんだ」
 楽しみにしていたのに。w

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2017/08/14追記

色々考えてて、まだ映画感想まとまらないうちお盆突入。
あっちの寺、こっちの実家、今日は墓。忙しい。

合間に終物語を見たら、CMでキミスイ劇場アニメ化って。
今度は原作のままにして欲しいなあ。

アニメ公式サイト → 劇場アニメ「君の膵臓をたべたい」

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最初に告白しておきます。私も泣きました。
 わざわざこんなことを書くのは、泣けると評判だった「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」で泣けなかったからです。
 半年前に書いたその感想はこちら。→ ぼくは明日、昨日のきみとデートする 感想


この小説は、私が最近読んだものの中でも屈指と言えます。

最近というのは、敢えて言えばここ10年程度です。
多くは読んでいません。せいぜい500冊くらい。(風呂敷広げ過ぎかな[笑い])
しかもなかり偏っています。

「好きな小説を3つ挙げて下さい」と問われたら、間違いなくこれを入れます。
一位かと言われたら、まあ色々悩むこともあるから、トップ3ということにしておきます。

==

読了して最初に思ったのは、桜良視点の物語を読みたいということでした。

桜良の言動の端々には自身の死への感情が現れています。
だけど、根本的なところの理解には至ることができませんでした。
私が本作を読んでいない人に桜良を説明しようとしたら、恐らく失敗します。
私以外の読者でも、自信を持って桜良はこんな子だと言える人はいない思います。

これは勿論、本作が桜良の描写に失敗しているからではありません。

桜良のような状況になって、桜良のような態度、行動をとることのできる少女は現実にはいないでしょう。
それなのに、桜良は圧倒的な存在感で私達の前に現れています。
作品の中で、桜良は生きています。

==

本作品はどのページのどの場面であっても、深く深く考えさせてくれます。
そんな作品は本当に珍しい。

私がこれを読んで何を考えたか。
あまりにも多岐に渡って、しかもその多くがもやっとしていて明確な言葉として表現することができないのがとても悔しいです。

以下では、かろうじて言葉に出来た部分、できそうな部分だけをピックアップして並べることにします。

==

近いうちに自分が死ぬという状況でなかったら、桜良は春樹に近づくことをしたでしょうか。
私はそれをしたと読みました。
桜良と春樹の関係、そして桜良が春樹に与えたものは、桜良の決まっていた死という重い現実がなかったとしたら、桜良が死なない世界があったとしたら、はやりそこに存在したのではないかと思うのです。

つまり、死すべき桜良の運命と、桜良と春樹の関係性は、本作の中では密接不可分のように見えてしまうけれど、実は別の事象であると捉えることもあながち間違いではない(のではないか[自信のなさの表れ(笑い)])と思いました。
(なんかあちこちから反論されそうだな)

==

作者の住野よるさんに関する情報がまだネットに殆どありません。
男性なのか女性なのかすら私には分かりません。

博多の夜の描写、「潔白」だったという一夜を読んでいて、男子高校生のリビドーを甘く見過ぎていないかと思いました。
「紳士だから」という表現が出てきますが、かなり無理がある。

流石に風呂には侵入しない、できないかな。
でもあの状況でもし春樹が着衣のまま入ってきたら、桜良は恥ずかげもなく「さあ、どうだ!」とその肢体を露わに見せたのではないかと思います。
覚悟の上でというより、「甘く見て」という意味でです。
そこにあるのは、春樹にとってそれまで目にしたことのあるどんな物とも比べることのできない美しいものであったはずです。たとえそこに手術の傷跡があり、「腐った膵臓」を内包したものであったとしてもです。
春樹は見ておくべきだった。
しかしリュックの中を見てしまうという、クラスメイトの女の子が全裸でそこにいるというのとは別の、強烈な要素があったために、そういう展開にはなりませんでした。

桜良が風呂上りにどのような姿をしていたのか記載がありませんでした。
お姫様抱っこをされたとき、何を着ていたのでしょう。
コンビニに行ったから、スウェットくらいなのかな。
そう言えば、他の場面でもTシャツとジーンズとか制服といった程度しか言及してなかったですね。

真実と挑戦の10番目の「命令」は、それを欲した桜良の内面が分からない私にはどうにも説明ができません。

春樹にはそれが分かっていたのか。
10番目の真実に答えることができなかった彼は、その短い時間に多くのことを考えたはずです。
だけど17歳の衝動は、そんな思考とは全く別の次元で背骨を抜けていきます。
自分が考えたことすらも、言い訳にしてしまう程に。
すぐそこにある、そして間もなく消えてしまう、命の鼓動、命の形に背を向けていられるはずかありません。

私は、あの「潔白」という言葉はなかったほうが良かったと思います。

そして/だけど、その後に記されている「誰も、僕を許してくれなかった」は、本作品の中で一番謎の言葉でした。
この言葉の意味、解釈によっては、私がここで述べたリビドーがどうとかいう文章は吹っ飛んでしまうのかもしれません。

==

【】で囲われた他者による春樹の呼称の意味は、不覚にも1/3ほど読み進むまで理解できませんでした。情けないなあ。[笑い]

桜良のメールで、ハートやピースが記号ではなく文字にしてあるのは、「小説に絵やグラフがあってはいけない」という作者さんのこだわりかな。

--

「小説じゃないんだから、私の発言に全て意味があると思ったら大間違いだよ」
という桜良のセリフは、桜良にとっては、そしてそれを受け取る春樹にとっては真実であるかもしれないけれど、読者である私達には最大級の反語ですね。
全ての登場人物の、全ての発言、全ての行動、全ての場面に意味があります。
無駄なものは一つもありません。

二人の会話には楽しくて笑える部分が多いですよね。

--

冒頭で桜良の死が告げられる構成、桜良が実際に死んだ状況、恭子とのエピローグ。
本当に上手いなあ。

==

桜良と春樹が互いに思っている「反対向き」という表現は、私は一次元ではないと思っています。
XY軸で規定された二次元空間の第一象限に桜良がいて、第三象限に春樹がいます。
X軸は外向的か内向的かということ。
Y軸は対人関係での積極性に関することです。

でも「見る目がある」桜良は春樹がもう一つの次元Z軸で同じ側にいることに気付いたのではないかと思うのです。

私は、その頃の自分は第四象限にいたのではないかと思っています。

この項は、自分でも何を言いたいのかよく分からないなあ。[笑い]

==

遺書に「私の膵臓を誰それに食べさせて下さい」と書いてあったら、日本でそれは実現できるのでしょうか。

本作品を読んで、もう誰かが検討しているかな。
これに言及しているサイトをご存知だったら教えて下さい。

死体を切り刻むのは、検死官にしか許されていないでしょう。
臓器移植の場合と、献体の場合は、医師(とその卵)が解剖することはあるかな。

それ以外の場合は、たとえ故人の遺志であっても犯罪になるんだろうなあ。

カニバリズムについて私が以前書いた文章はこちら → 「たったひとつの、ねがい。【入間人間】 感想」の後半部分

桜良の遺体は、結局火葬されたんですよね。

--

春樹が桜良の膵臓を食べたいと思った心情は、とても良く理解できます。
理解できた気になっているだけかもしれません。

桜良の膵臓は自分の血肉になったら本当に賑やかでうるさいでしょうね。

--

私は来世とかあの世とかいうものの存在を信じていません。
臨死体験に関する本などは結構読んでいますが、それでもまだ信じていません。
むしろ無いほうがいいと思っています。

だけどね。
桜良は天国に行って欲しいと思います。

私は桜良に手向けるものなど何も持っていませんが、天国に行って欲しいと思うその気持ちがせめてもの供養になればいいな。

そして、何十年後かにやってくる春樹や恭子と、賑やかにお喋りをしてもらいたいと思います。

==

本作品の映像化権の争奪戦は始まっているのでしょうか。
既に決まっているのでしょうか。

一読者として、希望/要望を書いておきます。

・安っぽい青春映画には絶対にしないで下さい。
 どういうものを安っぽいと感じるかは人それぞれでしょう。
 私が高校生主役のドラマでそう感じることが多いのは、学校、教室の描写です。
 モブの生徒や先生の演技が下手なのは仕方ないにしても、いかにも作られたものという雰囲気にがっかりするのです。
 春樹の教室内での存在の描写はそれに陥る可能性がとても高い。
 せめて本物の教室の様子を取材してそれを反映させる努力はしてほしいです。
 脚本と演出がおざなりだとすぐに見透かされてしまいますよ。

・ストーリーやエピソードを変えるのはいいです。
 だって本作品をそのまま映像化することは多分不可能ですから。
 【春樹の呼称】をどう扱うか楽しみです。
 だけど、桜良が死ぬ場面は原作通りにして、直接は見せないで下さい。

・脚本担当は、人気ではなく本当の実力で選んでください。
 小説作品の映像化の良し悪しは脚本の出来が大きなウエイトを持っています。

・キャストは慎重に吟味して下さい。
 「大人の事情」は完全に排除して、作り手の責任で選んで下さい。
 観客を呼べるかどうかという観点も排除して欲しいけれど、そこまで贅沢は言いません。


最後に脅しを。[をゐをゐ]

本作品はこれを大切に思う読者が沢山います。
生半可で中途半端な気持ちで映像化すると、絶対に痛い目に遭います。
それ相応の覚悟を持って臨んで下さい。
覚悟が持てないのなら手を出さないで下さい。
お願いします。

(いよいよ映画化が発表されたそうで、それについては下に書きます。2016/09/13)



2015/12/06 追記

田村さんから「誰も、僕を許してくれなかった」に関するコメントを頂きましたので、改めて考えてみたことを追記します。

あの文の解釈は難しいですね。

「許してくれなかった」という過去形、というより完了形っぽくなっているのが、余計に混乱を招きます。
ここでの「誰も」は仮定の他者不特定多数と理解して「誰かがそれを知ったら僕を許さなかっただろう」ということをあのように表現したのだとするしかありません。
しかしあの場に第三者はいないのだから、その仮定の他者とは春樹本人、つまり自分で自分を許せないと言っていると解することもできます。

では、その意味するところは何か。

あのシーンに「怪物」という言葉が出てきます。
これが許してくれなかったに関係しているのだろうとは想像できるのですが、その「怪物」が何なのかも明確には分かりません。

あの部分を素直に読めば、「怪物」とはある感情のことだろうと思われます。
忘れたふりをしていた桜良の死を、物(リュックの中身)として、彼女の言葉(10番目の真実)として突きつけられたときに生じたものです。
しかしそれが106ページに出てくる「恐怖」「怯懦」なのだとしても、何に対する恐れ、怯えなのかが分かりません。
桜良の死? 一般的な死そのもの?
桜良の死だとすれば、じゃあなぜそれが怖いのか。
怖がることをなぜ許せないのか。
「共有できない心(124ページ)」とは何か。
この問いはどこまで行っても答えが出ません。
自分なりに一つ決めると、それが新しい疑問を生んでしまいます。

ということで、私もまだ私なりの解釈にたどり着けてはいないのです。

このように、文章で示されていることを正攻法で理解するアプローチとは別に、リビドーを核とした3つの裏解釈も考えてみました。

「怪物」とは春樹のリビドーである、具体的に言えば勃起のことであるとします。


1.「ナイーブ」な解釈 (このナイーブは日本語での意味)

たまたまというかひょうんなことから同級生の女の子、それも間もなく死ぬ子と同じ部屋に泊まることになった。
同じ部屋で一晩過ごすだけだ。それ以上の意味はない。
理性で自分にそう言い聞かせても、17歳の身体は勝手に反応する。
彼女はそんなこと望んでいない。
これは彼女に対する冒涜だ。だけど、どうにもコントロールできない。

こんな浅ましい僕を知ったら、多分、誰も許してくれない。


2.「ある意味傲慢」な解釈

同じ部屋に泊まることになった。
最初から彼女がそれを意図していたわけではないだろう。
でも、そうなった。
そうなったからには、彼女は何か期待しているかもしれない。
どうせもうすぐ死ぬんだから。

だけど僕はそんなことはしない。紳士だし。
身体は反応するけど、それは押さえつける。
してはいけないんだ。

彼女のためには、してやったほうがいいのかもしれない。
それが彼女の望むことかもしれないし、生きている間の思い出作りとして協力してやるべきなのかもしれない。

だけど僕はしない。したくない。

こんな冷たい僕を知ったら、多分、誰も許してくれない。



3.「これは無いと思うんだけど、あっても不自然ではないかな」な解釈

死にゆく彼女はそれを望んでいた。
だから僕はそれに応じた。

これは僕と彼女の秘密だ。
読者にだってそれを知られてはならない。

僕は紳士ではない。
僕達は潔白ではない。

だけど、僕は自分が紳士であると言わなければならない。
僕達は潔白だったと言わなければならない。
それは、彼女を守るためだ。

こんな嘘つきの僕を知ったら、多分、誰も許してくれない。



最後の3の別バージョンとして、「彼女は望んでいなかったのに力尽くで」というのもあるのですが、物語の続きとの整合性が取れませんし嘘をつくのが自分のためということになるので、あんまりかな、と。

一番ありそうなのは1だと思います。
だけど、個人的な願望とはまた違うのですが、3であったら良かったのにと思う私もいるのです。

こんな風に、読む人それぞれで色々な解釈ができると思います。
私は精一杯考えてこの程度でした。ご参考になれば。

==

2016/09/13

実写映画化が発表されました。 →  記事の一つ

でも、この記事を書いたやつ、本作を読んでいないだろう。ヽ(`Д´)ノプンプン

だって「主人公の“過去”を浜辺美波&北村匠海、“現在”を北川景子&小栗旬が演じる」って、これだけ見たら既読の誰もが驚きますがな。
どゆこと????
もし、読んだ記者が書いたのなら、その記者は文章の勉強をし直して来い。

Wikipediaを読んでようやく理解できました。
キャスト
山内 桜良 - 浜辺美波
「僕」 - 北村匠海(DISH//)
現在の「僕」 - 小栗旬
恭子 - 北川景子


北川景子さんは「恭子」じゃないか。「現在の桜良」なのかと思ってびっくりしたわい。
桜良はめんまかぁ。実写あの花は録画だけしてまだ見ていないんです。
「僕」? 春樹のこと? 一人称映画??
北村匠海って知らない。信長協奏曲とか相棒とか仰げば尊しとか、私絶対に見ないから。※1
それと監督さんも、知らない。

でも、ま、期待して待つことにしましょう。
「現在」が描かれるってことは、それだけでもう、原作とは違うってことですよね。
それ自体は上にも書いたように悪くありません。
でも、これだけの情報から推測すると、大人になった春樹と恭子が桜良を偲んで会話している中で、
過去の物語が描かれるっていう構成かなあ。
現在の部分にはもう少し独自のエピソードが入るのかな。

※1
最近はテレビドラマ自体をほとんど見ません。
相棒  人気あるらしいけど、私は全く興味ない。そもそも警察・刑事物、サスペンス物が嫌なのです。
     SPECなど他の要素がメインだったらいいんですけど。
信長協奏曲 かみさんが少し見ていました。あまりにもバカバカしくて私はパス。
仰げば尊し テレビってヤンキーとその立ち直りの物語が好きねえ。吐き気がする。

--
2016/9/14

少しゆっくり考えてみました。

現在の場面があることと、キャストを並べてみると、これは実はよく考えられているのかも。

まず高校生の桜良と春樹のキャスト。
私はこの二人の演技は知りませんが、ジャX―ズとか、AXB系とか、人気先行で選んだのではないことに安堵しています。
だけど、それとは逆の意味でまだネームバリューのない二人だけを前面に出しても、本作を読んでいない大半の観客の興味を引くことは少し難しいでしょう。

いまだに本作を紹介するときにタイトルがどうのこうのという記事が多いことから、本作のタイトルが持つ深い意味が、未読の人にとってハードルとなってしまうことも否定できません。

ではどうするかと考えたとき、小栗さんと北川さんを登場させることはそれを補って余りあると思うのです。
(北川さんは結婚後のこの時期、それがどう影響するかは予断できませんけれど)

少なくとも今の時点では、私が期待する方向で映画が作られるのだろうと思っていいのではないでしょうか。
スタッフ、キャストの皆さん、頑張ってください。

でも実際に見るまでは過大な期待はしません。
見た結果、良かったら儲け物としておきます。


==
2017/2/21

コミック版1を読みました。



なかなかいいんじゃないかな。
私は気に入りました。

でも博多の夜の「誰も、僕を許してくれなかった」はスルーというか、記載されていませんでした。
どうしてかな。
コミック版だけ読んだ読者に意味不明になるから?
でもそれだったら原作読者も同じなんだけど。

コミック版での解釈を楽しみにしていたのになあ。
映画はどうするんでしょうね。

東雲すずめさんの黒猫 圧倒されました
ああ、連休終わっちゃいましたね。
連休と言っても仕事行ったし、家でもあれこれさせられてたし。
でもま、盆休みの墓参りや年末年始休みの大掃除よりは一番気楽な休みで、
子供も大きくなってどこそこに連れてけもないから、ゆっくりはできました。

会社や家で働いてないとき何やってたかというと、「ダンまち」の原作を読んでいました。
今日でようやく2巻読了。

ちょっと不思議な作品です。
内容がではなく、うーん、何て言えばいいんだろう。

特に文章が読みにくいということではありません。
キャラは立ってるし、ストーリーは面白いし。

でも読むのにとても時間がかかるのです。
1冊読むのに3日以上。
くどさはそんな感じないんだけど。
漢字の選択とか、文章の流れにちょっと妙なところはありますが、読むのに邪魔という程ではありません。

謎だ!!

私に続いて1巻を読み始めた高一の次男も「これ、なかなか進まない。どうしてかな」と言っています。



この春のアニメは7本ほど録画予約入れていました。
現時点で残っているのは3本。①「長門有希ちゃんの消失」②「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」③「プラスチック メモリーズ」

①は外しようがない。後で改めて感想を書くかもです。
②はさすがに人気がありますね。面白いです。私の好みはシル。
③はねえ。実を言えばつまらないんだけどアイラ見たさだけで続けています。
だって主人公のツカサが馬鹿すぎるし、エピソードや設定そのものが面白くないのです。

視聴から落ちたのは④えとたま(つまらない)、⑤きんいろモザイク(すいません。好みじゃなかったです)、⑥山田くんと7人の魔女(ドラマをかみさんが見てたんだけど、とにかく主人公が嫌)、⑦ニセコイ(第二期だしなあ)
  好きで見続けている人、ごめんなさい。ただの好みの問題です。

⑥と⑦は花澤香菜さんの出番まで我慢したかったけれど、無理でした。
花澤さん好きだけど作品として好みではないアニメは見ません。




その花澤さんからみで、以前汐宮栞のイラストでお世話になった東雲すずめさんのイラスト集を紹介します。

THE KURONEKO MANIAXX 2 !!!!!!! ← リンクは専売サイトです。

全ページ、俺妹の黒猫です。
すずめこさんによる黒猫愛の集大成。

届いたのを開いてみて圧倒されました。

正直、私は俺妹があまり好きではなく、黒猫のこともよく知りません。
そんな私が見ても、このイラスト集はすごい。

腕のいい(もしくは自分と感性の合う)写真家が作った写真集に感じる質の良さと言えば近いかな。
被写体への愛があふれ出していて、黒猫という存在の表現で到達できる一つの境地なのでしょう。

極めればここまで行くんだなあ。
あー。私が何かを極めるってことはないですし、そのつもりもありませんけど、何等かを対象としたファン活動の届かざる目標にしたいと思います。

下の例示するのはPIXIVに投稿されている中で私が一番気に入ったチャイナ服です。

チャイ瑠璃 | 東雲すずめ [pixiv]





ぼくは明日、昨日のきみとデートする 感想
2015/4/4「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」の二次創作小説をネットで公開しました。
詳細はこの日記の下の方をご覧ください。

==
2016/12/17 映画感想を追記しました。

==

3冊の感想を書いて、さあここに載せようと思ったタイミングで、新聞に広告が載っていたので本作を買って読みました。
切ない、泣けると評判らしいです。


ぼくは明日、昨日のきみとデートする (宝島社文庫)ぼくは明日、昨日のきみとデートする (宝島社文庫)
(2014/08/06)
七月 隆文

商品詳細を見る


でもね、私は泣けませんでした。
なので、4冊目を追加します。

手元に届いてから2日で読み終わって、娘に「これ読み終わったけど面白くなかった、時間の無駄だった。最近最後まで読んだ本の中で断トツにつまらなかった」と言いました。
娘は興味なさげに「はい、はい」と聞いていたのですが、その2時間後に灯りを消して寝に入っていた私のところに駆け込んできました。
「ね、これ見て」 手にはスマホを持っていました。
その画面には娘の友達のツイートが表示されていました。
『2日で読了。いやあ良かった、泣けた』とあり、本作のカバー写真が載っています。
「さっきお父さんに見せられたばかりの本だったから驚いた」
「ふーん。じゃ、おとんがつまらなかったって言ってたってリツイートすれば?」
「そんなことできるかぁーー!」
がはははh。

    リツートって返信という意味じゃかなったんですね。
    ツイッターやFacebookをやっていない。
    スマホを持っていない、LINEなんて知らない。
    でもブログはやってる。
    私ってネット上のガラパゴス? ww


だってこれ、見事なまでにベタな恋愛小説です。

まず、彼女(愛美)の設定が「完璧」です。

まさに非の打ちどころがない、絵に描いたような理想像です。
本作は彼女がそうでなかったら成り立たないお話なのです。

そして恋愛自体もこれまた絵に描いたように理想的に進行します。

電車の中での一目惚れから少しずつステップを踏んで進んでいくそれは、もてない男が妄想で描く恋愛の進行そのものです。
非リア充の諸兄がそれを読んで楽しいと感じると思えますか?

本作品は現時点のリア充及びリア充の経験者、さらに将来自分がリア充になりえる自信(期待)を持っている人のための作品です。
現在及び過去非リア充で、将来もそれから抜け出せない自覚のある人が読んでも全く面白くありません。

お前はどうなんだと言われそうです。
私は現在かみさんがいて、子供がいて、そこそこ満足のできる生活を送っています。
でもその状態を「リア充」とは言わないでしょう。

私の勝手な定義では、リア充とは高校生から20代までの期間限定のタームであって、中学以前と30代以降は関係ないのです。
だからその期間にリア充たりえなかった人は、現在どれだけ幸福であってもリア充とは呼べません。

で、そのリア充になれなかった私(←また要らんこと晒しちまったw)からみて、本作は本当につまらないのです。

本作の彼女は異世界(パラレルワールド)の住人です。
その世界は我々の世界とほぼ同じなのですが、大きく異なる点があります。

(1) 我々の世界に来る方法があり、それによって家族旅行などで遊びに来ることができる
    但し、ある程度の制約がある
   制約1 5年に一度しか来ることができない
   制約2 一度の来訪は40日間だけ

(2) その世界の時間軸は我々の世界と逆向きになっている
    つまり、本人にとっての翌日は、こちらの昨日である
    但しこちらの世界にいる間は、こちらの世界と同じ方向に時間が流れる
    これによってもう一つ制約が発生する
   制約3 こちらの世界に連続して存在している場合、午前0時に強制的に管理所に集められる
        そのとき、こちらの世界で前日の午前0時になっており、本人にとっては48時間前になる

時間軸が逆になっているという設定、翌日には昨日の人に会うという設定は私が半年程前に読んだ「天体少年」と全く同じです。
この天体少年については後述します。

主人公高寿が電車で見て一目惚れした愛美は、彼女の過去40日間高寿と恋人として過ごしてきた女性だったということになります。
そして、愛美はもう二度と大人の(その時点で20歳)高寿と会うことはできません。

40日前(こちらの世界では40日後)、愛美は高寿から付き合っていた間の出来事を詳細に教えてもらっており、それを忠実になぞった行動をしてきました。
なぜそのような行動をしたのかは、それよりも未来、及び過去の出来事が関係しているのでここでは立ち入りません。
要するに本作は、出合って恋人同士になることが運命付けられていた、ドライに言えば決まっていた二人の40日間の物語ということになります。

でね。
その恋愛の描写があまりにもベタなのです。
もう勘弁してくれってくらい初々しくて綺麗でそして熱々なんです。

以下、強烈な自虐を内包したおもいっきり上から目線の記述が始まります。
本作を読んで泣けた方、本作を評価している方にはかなり嫌なことを書きますのでご注意下さい。
反論は受け付けますが、考えは多分変わりません。

二人の恋愛がベタに進行するのは、そこに彼女の献身的な努力があるからです。
本作の前半では愛美の努力が謎の行動として描写されています。
例えば愛美は堪えきれずに涙を流すことがあり、事情を知らない高寿は愛美を泣き虫だと思っています。

これらの謎はある程度本を読んでいる者には見え見えの簡単な謎です。

私は読み始めるまで本作の設定を知りませんでした。
しかし、キリンのクロッキーのエピソードを読んだ時点で全て分かってしまいました。
それでも、私の想像を越える意外な設定が組み込まれていて、それは読み進んでいるうちに明かされるのだろうと期待していました。

それがまさかここまで雑な設定だったとは。
その設定の上で展開される熱々でベタな恋愛エピソードなんか読みたくありません。

これじゃあ、そこら辺のケータイ小説(甘々ベタベタで最後にどっちかが病気か事故で死ぬやつ)と同じレベルじゃないですか。
なんでこんなので泣けるんだよ。

少なくとも、読書家を自任する人で本作を評価するなんてありえない。
私は今は月にラノベを数冊読むだけのなんちゃって読書家だから、読書家を名乗る資格すら持っていませんけどね。けどね。
けどね。。。

だって、だって。
羨ましくってしょうがないんだもん!

本作で描かれている恋愛は、その特殊な設定を除いても、リア充の人が経験している、もしくは経験した恋愛と比較して、有りえないくらい理想的なものだろうと想像します。
それすら経験したことのない者がこれを読むのはつらい。
これを読まされるのは辛過ぎる。(強制されたのはでなく自分で進んで読んだのですけど)

ということで、私は私の矜持にかけて、本作品を評価しません。 ← そんな矜持、犬に喰わせてしまえ!!

はははh... orz

ここで、少し冷静に戻ります。
設定が雑だと思うのは、その冷静さの部分で考えたことです。

全くの想像ですが、作者さんは文系の人なのでしょう。
少しでも理系の考えをする人であれば、本作の世界観をあの程度の説明ですますはずがありません。

彼女の世界は、はっきりとは書いてありませんが、どうも私達の世界とそれ程時代が違わないようです。
異世界に旅行できるという点ではかなり進んでいる可能性もありますが、だとしても数百年レベルでしょう。

0年でも50年でも構いませんが、仮にそれを100年とします。
100年違えば、名付けの傾向すら変わっているかな。
100年前の女性の名前と、現在の女の子の名前は随分違いますよね。
今から100年後にも愛美ちゃんがいるかもしれませんけど。
まあそれ言い出してもしょうがないので、ここでは100年とします。

この場合、本作の時代、我々の年で言えば2010年(阪神淡路大震災の15年後)は向こうの世界では2110年になります。
歴史の大まかな流れは両方の世界で同じと仮定します。

100年遅れた異世界に旅行するのは、レトロな世界を楽しむ、異なる文化(向こうにはドラえもんがいない)を楽しむということなのでしょう。

異世界旅行が可能になったのは彼女が5歳になる以前のことですから、それを彼女が生まれた2090年だとすれば、そのときこちらでは2030年で、時代差は60年です。

向こうの世界の時代が進むにつれてこちらの時代は遡りますから、2110年の100年後、2210年にはこちらの世界は1910年ということになります。
明治の末期ですね。年代差は300年です。
以降この年代差は開いて行きます。

旅行で行った先の異世界人と、似たような価値観で会話ができるのは、どうだろうせいぜい50年くらいでしょうか。
100年開いていても、まあ恋愛はできるかな。

でもそれ以上になると、かなり難しいでしょう。
今の私達が幕末の頃の人と会って、普通にコミュニケーションできると思いますか?
事前にある程度訓練すれば可能でしょうけれど、家族旅行という訳にはいかないかな。

つまり、本作の設定は、たまたま偶然にもあまり時代の離れていない異世界への旅行が可能な期間における物語ということになります。
まあ、そういうことなんだから、これはいいです。問題にはしません。

次に。携帯電話を持ってはいけないという設定。
これはメールや通話の履歴が問題になるからかな。
未来の日時の履歴があったら怪しまれますもんね。
ということは、異世界からの旅行者であることを我々に知られてはいけないという前提があるのでしょう。

でも、彼女は簡単にバラしちゃいましたよね。
そこ、どうなの? 本当にいいの?

彼女はその後、10歳と5歳の高寿に会っていますから、バラしたことのお咎めを受けていないってことですよね。
本作は時間SF(純粋な時間SFではありませんけど)に付きもののこの問題を放置していると思います。

また、午前0時にリセットされる件。
これはそうなっている理由が全く理解できませんでした。

午前0時に彼女はまるで自然現象のように高寿の前から消滅します。
その次に会う彼女は、消えた(つまり高寿と同じ記憶を持っている)彼女ではなく、「昨日の彼女」なのです。

異世界旅行で「一日」という時間の単位に何の意味があるでしょうか。
だって、少なくとも40日間は連続して異世界にいる訳ですよね。
その期間にピコンピコンと一日単位でリセットする物理的な理由が想像できないのです。

2015/3/7 追記
 改めて図を眺めていたら、根本的な間違いがあることに気付きました。
 いま、ちょっとパニックなので落ち着いて検討できません。
 うー。どうしよう。
2015/3/8追記
 一晩考えたら、「根本的な間違いがある」と考えること自体が間違いらしいことに気付きました。
 ああよかった。w
 本作の設定は正面から取り組むとそのくらいややこしいということです。
追記 ここまで

下の図を見て下さい。

図1
TimeT1.png

この図1で、緑の線はわれわれの世界の時間方向、赤い線は彼女の世界の時間方向です。
つまり我々にとって左が過去、右が未来です。

四角で囲った一枡の幅が一日です。
40日間を表現すると長くなり過ぎるので、ここでは5日にしていますが原理は同じです。

彼女は赤い時間のあるとき、私達の世界にやってきました。(紫の下向き実線矢印)
それは図の「5日目」の午前0時です。
それから24時間(青い矢印)経って、「5日目」の夜中(24時)にオレンジの矢印に沿って「4日目」の午前0時へジャンプします。

その後同じジャンプを繰り返して、「1日目」つまり高寿が彼女に一目惚れした日の午後24時に元の世界に戻っていきます。
戻ったのが紫の上向き実線矢印であれば、彼女の世界では出立してから3日後ということになります。
彼女はこちらの世界で5日すごしていますから、戻ったとき2日分だけ老けていることになります。

もし、戻ったのが上向き点線矢印のように出立した時点なのであれば、5日分老けることになります。
また、ちょっと見にくいですけど、黄色の矢印であれば、老けは発生しません。

老けるかどうかはここでは問題ではありません。
ここで注意すべきは、いずれの場合であっても、異世界人は我々の世界に来る技術だけでなく、時間を移動する技術も持っているということです。
但しそれは我々の世界と絡む場合だけであって、赤い時間軸の上だけでの移動はできないのかもしれません。

何が言いたいかというと、これだけ時間移動ができるのであれば、何も一日ピッチでジャンプする必要は無いのではないかということです。

次の図2を見て下さい。

図2
TimeT2.png

紫実線に沿って移動すれば、毎日のジャンプは必要ありません。
実線ではなく、点線でもいいのですが、この場合は出発点と戻り点の間で向こうの世界に彼女が二人存在することになりますから、それは避けるでしょう。

一日という時間の単位は単なる地球の自転時間ですから、これが異世界旅行に物理的な制約をもたらす理由が考えられません。
ですから、人為的な何らかの理由で法的にそのような制約を設けていると考えざるを得ません。
一番有りえるのは、我々の世界に連続して長時間存在することで異世界人に情が移ることを防ぐという理由です。
でもこれでは彼女がやったことの説明ができません。

このような点を考慮すると、本作品の異世界移動、時間移動の設定は、深く考えて作られたのではなく、「毎日昨日の彼女に会う」という状況を作り出すためだけにあるように思えます。

であれば、設定が「雑」であってもおかしくありません。
本作品はこの状況下ので二人の恋愛だけがテーマなのでしょう。

だから、私は冷静になっても本作品を評価できないのです。

こちらの世界でジャンプを繰り返さなければならない理由がある程度納得できる形で提示され、その上で恋愛の描写が全体的にもう少し薄かったら、私も泣けたかもしれません。

上でちょっとだけ言及した「天体少年」は、主人公(女の子)が「毎日昨日の彼氏に会う」物語です。
この作品では天文現象に則って、なぜ毎日なのか納得のいく設定がなされています。
しかも単なる恋愛だけではない、色々な要素が含まれています。

本作品で泣けた人も泣けなかった人も、「天体少年」を一読されることをお勧めします。
→ 天体少年感想



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渡来 ななみ

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補足

毎日リセットをうまく説明する方法が一つだけ思いつきました。

次の図3を見て下さい。

図3
TimeT3.png

まず向こうの時刻Aに我々の世界にやってきます。②
こちらでは5日目の午後0時です。
こちらで24時間過ごしたあと、元の世界の時刻Bに戻ります。③

すると、①と④の前半の期間、つまりBからAまでの間、あちらの世界に彼女が二人存在することになります。
ここでは、④の前半はどこか待機所に閉じ込められているとでも考えましょう。

④の後半では、待機所を出て向こうの世界での生活を24時間送ります。
そして時刻Cにまたこちらの世界に移動します。⑤
こちらでは4日目の午後0時です。

そして24時間後に⑥で向こうの世界に戻り、⑦の時間を過ごします。
④と⑦でまた二人になるので、⑦の前半は待機となります。

これを繰り返すことで、こちらの世界では彼女が毎日リセットしているように見えます。

この方式は異世界への移動だけで成り立ちます。
時間移動が発生しません。
2つの世界が存在する超時空間で隣り合った時刻(図では上下に並んだ時点)にしか移動しないのですから。

問題は待機所での閉じ込めと、40日で往復をカウントして80回の異世界移動が必要になることくらいです。
待機は、こちらの世界にいることが肉体的負担をかけるのでそれを緩和するためと考えれば説明がつきます。
毎日緩和しても40日が限界、さらに、40日行ったら5年間は行けないという理屈も考えることができます。
移動自体は負担ではない、電力など経済的問題もないとすれば80回の移動は問題になりません。

図1と図2は、一度こちらの世界に来たら戻るまでずっとこちらにいることを前提に考えていました。
そうではなく、リセットの度に向こうに戻るとしたらどうかと考えたら図3になりました。
図2の紫点線が40日で考えていたのを1日単位にしたということです。

これが一番すっきりするかな。
時間移動が可能であれば、物語の構成上、別の色々な問題が発生しますからね。

評価しないと言っておきながら、散々弄って楽しんでいるなあ。w

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2015/2/18 追記

今日、パラパラっと読み返ししてみました。(時間の無駄だったと言いながら何故?)

ガラスの仮面のこと忘れてたなあ。
ということは、2つの世界の時代はかなり近いことになります。

また、上の日記で異世界移動が科学テクノロジーを使っていることを前提に考えていました。
でももしかすれば、愛美の乏しい説明から想像すると超常的な自然現象を利用しているのかもしれません。

なので前提を変えて、上と同じように考えてみました。
それで毎日リセットも少し納得できる説明ができそうです。

でもそれを書いたファイルを忘れてきたので、明日以降ここに追記します。

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2015/2/19追記

昨日パラパラと少し読み返してみました。
(↑ここ、本当は「今日」と書いていたのですがw)

私は異世界移動を科学的なテクノロジーで実現しているのだろうと思っていたのですが、どうもそうではないようです。
むしろ、超常的な自然現象を利用しているような印象がありました。
どっちにしろ明示はしてありません。

一日単位でしかいられない理由は因果律らしきもので少しだけ説明してありました。

改めて考えてみると、次のような設定があるかもしれません。
図4を見て下さい。

図4
TimeT4.png

愛美は自分の世界の1日目の0時に出発して、こちらの世界の5日目の0時に到着します。(オレンジの矢印)
そして、青矢印に沿ってこちらの世界で24時間過ごします。
それから、赤矢印に沿って向こうの世界の1日目の24時に戻り、引き続き、こちらの世界の2日目の0時に移動します。
これであれば、こちらの世界で過ごした24時間をあちらの世界ではスキップすることになるので、「老け」は発生しません。

但し、図4では図1、図2の解説で指摘したような時間移動は発生しています。
図4を少し変えた図5て、向こうの1日目の始まりとこちらの5日目の始まりが向かいあっている場合でも同様です。
向こうからこちらに来るときに時間移動はありませんが、向こうに戻るとき、向かいあった関係で見れば48時間の時間移動が発生しています。

図5
TimeT5.png

但し但し、図5では次のように考えることも可能です。
向こうからこちらに来るときは、常に向かい合った時点にしか移動できない。
つまりそこに時間移動云々の問題はない。
こちらから向こうに戻るときは、出発時点からその人がこちらで過ごした時間だけ進んだ時刻に戻る。つまり戻るときには「向かい合った時点」という概念に関係なく、その人の異世界存在時間が加算される。

図5をよく見ると、この場合も「老け」が発生していないのです。
こちらの世界に24時間滞在したら、向こうの世界では出発時点の24時間後に戻ることになるのです。

作者の七月さんは最初から図5のようなことを考えていたのかもしれないですね。
私が無駄にややこしく考え過ぎたのかもしれません。

それと、向こうの世界の時代は、こちらと100年ずれていることもありえなさそうです。
ドラえもんはいませんでしたが、「ガラスの仮面」が出てきます。
それに「街並みが似ている」という描写もあります。
移動がテクノロジーに依るのでなければ、近くてもあまり違和感はないですね。

二人にとって都合良く、程よく近しい時代への移動だったということです。

そうか、愛美は10歳の高寿に自分が「芸能人」だと話しているのは、このガラスの仮面につながっているんだ。
愛美は美容師ではなく女優の仕事をしているのでしょう。
高寿と会っていたとき、特に前半部分の「演技」にもその才能が現れているってことかな。
美貌は言うまでもないですしね。

==

2015/2/23 追記

今ですね。
本作の二次創作小説を書き始めています。

時間の無駄と言っておきながら、何故? 何故? 何故?
この何故は放置しておきます。w

でもこの世界観での因果律を考え始めると、とてもじゃないけれど収拾できません。
だってタイムパラドックスやり放題です。

1)異世界人のAさんがこちらの世界に移動してその日の新聞を入手する。
2)そこに交通死亡事故が載っていたとする。
3)翌日、こちらの世界の一日過去にきて、その事故を防止する。
4)新聞に事故が載らない。

Aさんにとって3)の時点で「事故が新聞に載ること」は過去の出来事だから、4)がどうなっても関係ない。別の言い方をすると、Aさんは事故が載っていない新聞を見ることはない。
こちらの世界では最初から事故は起きず新聞にも載っていなかったとなって、これも問題にならない。
じゃあ、Aさんが見た新聞は誰がどうやって作ったんだ・

このパラドックスを回避する方法を色々考えているのですが、考えれば考えるほどややこしくなってしまうのです。
現在とは何か、過去とは、未来とは。頭痛い。w

それに、この状況で「異世界の家族旅行」なんて考えられません。
旅行者に因果律に影響を与えないという制約を課すにしても、子供は何をするか分からないでしょう。

結局、本作の設定でラブストーリーを書くには、因果律の問題をぼかすしかないのかなあ。

小説が出来たとして公開するかどうか、まだ微妙です。
自分としては面白いストーリーになりそうなんですけどね。

==
2015/4/4 追記

さっき、その二次創作小説を投稿してきました。

2本あり、続き物ではなくそれぞれ別の結末にしています。
だけど完全に独立しているのではありません。

僕は明日、五歳の君とデートする(A)

僕は明日、五歳の君とデートする(B)

(A)は原作で不満だった世界観の解説に力点を置いています。
勿論その内容は私の勝手な理解・解釈です。

(B)は高寿と愛美のその後を扱っています。
ウルトラC(古臭)の技を使ってかなり意外なストーリになっています。
少しだけ泣ける要素も入れました。

ただ、どちらも原作の内容を100%完璧に踏襲しているのではありません。
あちこちボロが出たり、破綻が見えると思いますが、そこはご容赦下さい。

投稿前に、誤字チェックを兼ねて娘に読ませたら。
「(A)は理系的な理屈っぽいところがちょっと難しかった。(B)は言いたいことがストンと入ってきて面白かった」
だそうです。(娘は原作を読んでいません)

興味が湧いてお読み頂けたら幸いです。

あ、そうだ。どちらにも五才の愛美は直接には出てきませんので悪しからず。w
それにしても、原作のタイトルはなぜ「僕・君」じゃなくて「ぼく・きみ」なんでしょうね。

2015/4/11
わーい。今日この日記に2つ目の拍手がもらえました。
ありがとうございます。

小説もAが26回,Bが32と開いて貰えています。

こういう反応を見ることができるのは嬉しいです。

==

2015/4/29追記

この日記にコメントを頂いたコータローさんが主催しておられるFacebookのグループ「ぼくは明日、昨日のきみとデートする ファンページ」です。
https://m.facebook.com/groups/1561372320818608?ref=bookmark
この日記を紹介して頂きました。

さらに、そのコータローさんのブログ
http://blog.livedoor.jp/mn3356/
本作品の聖地巡礼が豊富な写真で載っています。必見です。
私も、本作品を読んでいるとき、実在の地名だと気付いてからGoogleマップを参照しながら読んでいました。

ーー

PIXIVで見つけた「たると」さんによる愛美のイラスト。
「2010年 4月13日」というタイトルになっています。



カスヤナガトさんによるオリジナルよりも、こちらの愛美のほうが好みかも。
20才よりは大人びて見えるかな。
今、目の前でリアル20才の娘が寝転がってテレビを観ているから、余計にそう思うのでしょう。w

==

因幡の黒ウサギ さん、コメント返信もうちょっと待って下さい。

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2015/1/16追記

最近は落ち着いてきて日に数件だったこのページの閲覧が、13日はいきなり数百件もあってびっくりしました。
映画化が公表されたようで、おめでとうございます。

本当にめでたいかどうかは映画が完成して、それを見てからでないと言えないのかもしれません。
でも、本作をまだ読んでいない人、存在を知らない人が、主演の二人などへの興味から買って読む可能性が広がるのは確かでしょう。

公開されたら映画館に見に行くつもりです。
かみさんは興味示しそうにないから、多分一人で。(泣)

でね、いい機会だからはっきりさせておきます。
今更こんなこと言うのみっともないんですけど。

このページで私は本作を「泣けない」「面白くない」「評価しない」として、その理由をくどくどと書いています。

しかし、嫌いではないのです。
敢えて言えば、というよりストレートに「好き」です。
この感覚は上の文章を深く読み解けば判ってもらえるかもしません。(そんな暇人いないかw)

だって嫌いな作品の二次創作をするはずがありません。

世の中には「どうだ、俺ならこれくらい面白いものにできるんだぞ」とイヤミで二次創作する人もいるのかもしれません。
私にはそんな度胸も実力もありませんし、そもそもそんなつもりもありませんでした。

映画は泣けるかな。

私は小説やコミックの映像化は、「原作を動く映像として見る」のではなく、あくまでも原作をベースにした広い意味での二次創作として受け取ることにしています。
私の書いたヘボ小説と同列に扱われては映画も迷惑かもしれませんね。
最初から二次創作と捉えれば、原作に対して自分が持っているイメージから外れていてもがっかりすることがないからです。
これまで何度も裏切られた経験からそうなりました。

でも、本作の映画はできるだけ原作に忠実な内容にしてほしいと思っています。
では、映画の公開を待つことにしましょう。

==

2016/11/19  追記

映画の主題歌ハッピーエンドのCDが11/17に届きました。
それからずっとリピートで聴いています。(通勤とかの移動のときに)

back numberの存在すら知らなかったので、聴くのは初めてです。
そんな状況での印象を少し書いておきます。
ただ、ぼく明日の主題歌という意識が強いので、その意味でのバイアスはかかっています。


第一印象は悪くない。
劇場で見た予告で聴いていたせいもあってすんなりと入れました。
今改めてネットで予告映像を見たのですが、この曲のイントロのところは聞こえてなかったような。
でも、CDでイントロを聴いたとき、あ、これこれ、と思ったのはなぜだろう。

音に関してはバカ耳なので、自信が全くありません。
でも、「面白いコード(の変化)だな」と思いました。
聞き手が期待する方向からずらしているんでしょうね。
でも各パートの終わりの部分は尻切れのような印象になってしまうのが少し残念かな。


で、歌詞。
まあ今どきの歌の歌詞には似た感想が多いんですけど。

選択されている言葉の違和感が少し強いです。
・咳をするみたいに
・青いまま枯れてゆく
・握り潰した
・暢気ね

特にサビの「青いまま枯れてゆく」が何を指しているのかさっぱり分からなくて。
「私みたいと手にとって」というからには花? 青(多分緑色)い花って蕾?
枯れるとき青いものってあるかな。
こんな風に理で考えちゃ駄目なんでしょうけれど。

また、愛美の言葉と捉えたら「握り潰した」と「暢気ね」はそぐわないんだよなあ。


全体として。
この歌で描かれていることを一般の状況(つまりぼく明日のような特殊な設定ではない)としたとき、これは何が起きているんだろう。
ぼく明日のことを歌っていると限定すれば、それなりに納得できそうかな。
多分ですけど、どちらにも取れる(ぼく明日を知っている人にはそのように、知らない人には一般的に)ようにしているのでしょうね。

PVはカラオケの画面みたいだなあという印象です。
男三人だけで演奏してても見たいとは思わないですけどね。

映画公開までに暗唱できるまで聞き込むことにします。
そうした方がいいって、君の名は。で感じましたから。





2016/12/17 追記

映画公開初日の2016/12/17午後4時の回に行ってきました。
アニメ映画は一人でも平気なんですけど、さすがにこの映画を一人で見に行く度胸はありませんでしたから、かみさんと二人で。

幸いなことにここ数日のテレビでの宣伝で興味を持ったことと、種市先輩の頃から福士君が好みの範疇だったらしいのです。

チケットを買った時点で殆どの席が二人並びの状態だったので、ほぅ、カップルばかり来ているのかと思っていました。
でも実際は女性のペアのほうが多かった。
かみさんに言わせると「そりゃあ福士蒼汰を見に来てんのよ」だそうです。

私らの後ろの高校生くらいの二人の女子、映画が始まる前はもとより始まってからもなんだかんだと喋ってくれて、うるさいったらありゃしない。
終わってから顔見たら、頭の緩そうな顔してたからしょうがないか。(これくらい言ってもいいと思うくらい邪魔だった)

まあそれはいいとして。

私の興味は「私は泣けるだろうか」に尽きました。
でもね、うーん。そこ微妙だったなあ。
最初に愛美が泣くシーンは、あ、これやばいかもと思ったものの、そこを堪えたら後はまあねえ。
前半は(愛美の涙以外は)ただただベタな恋愛模様だったしなあ。
後半でも愛美が異世界人であることの設定の説明が原作以上になかったですよね。
ファンタジーとしてもそこすっ飛ばして、みんなあれで納得できたんだろうか。

それ以外にも原作からカットされた設定が多かったですね。
ドラえもんも、ガラスの仮面も、愛美が女優していることも、「お菓子を送って下さい」も。
高寿が愛美に助けられたのが阪神淡路大震災ではなく池で溺れたことになっているし。(これは仕方ないか)
そもそも季節が春先から晩冬に変えられていて(これは撮影時期のせいかな)、期間40日が30日に短縮されていました。
30日にしたのは「月の満ち欠け周期」がこちらの世界に居ることに関係しているという、こちらは原作にない設定からでした。
予告で30日と聞いて、え? 俺40日と思ってたけど間違ってた? と焦っていました。

終盤、愛美の日々を1日から順に見せてくれる構成は、原作にありましたっけ?
原作が家の中で行方不明になっていて確認できません。
映画オリジナルであればいい演出だなと思いました。
でも、もうちょっと、それ以前の場面になかった愛美視点のカットを盛り込んで切なさを強調したほうがよかったかなあ。

映画自体は丁寧に作ってあると思いました。
原作から大きく外れることもありません。
でもだからこそ、原作のポテンシャルの縛り(酷い言い方してるw)を抜け出せなかったのかな。

なので、私自身としてはこの映画を他の人にお勧めすることはありません。
見るなということではありません。
「一番泣ける映画」というキャッチフレーズがハードルを上げ過ぎているのではないかと思うので、過剰な期待はしないほうがいいですよという意味です。

それと、映画で泣けた方についてどうのこうのという気持ちはありません。
私は映画で泣きたかったのに、泣けなかっただけなのですから。

かみさんの話。
かみさんは原作の内容を殆ど知らない状態で映画を見ました。

・前半は「20歳前後の恋愛映画? 私はその世代のはもうどうでもいいんだけど」と思ってた。
 だから前半は二回くらい寝そうになった。

・あなた(私)から「敢えて言えばSF」と聞いていたから、「彼女は彼の母親」か何かかと思ってた。
 ベッドシーンが出てきてさすがに違うかと。

・私「何でそうなるか、がさっぱり分からなかったろう?」
 か「だって、みんな原作読んで知ってるんでしょう」
 私「映画見る人全員が読んでるなんて限らないよ。
   原作にもあまり説明がないんだ。
   映画はもっと酷かった(説明がなかった)けどね」
 か「そんなことはどうでもいいのよ。みんな恋愛を見たいだけなんだから」

二度めの夏、二度と会えない君 感想
③ 二度目の夏、二度と会えない君

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バンド仲間の女の子が病院で死ぬ間際に「好きだ」と伝えたことを激しく拒絶された主人公が、その女の子と出合ったときまでタイムリープ(時間遡り)して、もう一度三カ月間を経験する物語。

この話でもタイムリープの原因/理由などは何も語られていません。

主人公以外はそのタイムリープのことを知らないので、発生する出来事は主人公が一回目の時間で経験したことそのままです。

女の子(燐)が死ぬことを知っている主人公(智)が、とにかく自分の気持ちを燐に知らせないままその三カ月を幸せに過ごさせることに腐心します。

しかし、「そのまま」とは言っても主人公の微妙な言動の違いが影響して一回目とは異なる出来事が発生します。

特に顕著なのは「燐が智を好き」というサインが頻繁に現れる点です。
但し、それに相当する一回目の場面はあまり語られていない(※)ので、実際にどの程度違うのかは読者には分かりません。もしかしたら燐は一回目にも同じようなサインを出していたのかもしれません。

いずれであっても、智は二回目の時間で「自分が燐を好きなことを悟られない」ための態度を取りますから、そのことがかえって燐を傷つけていきます。
智は燐が自分のことを好きではなく、自分が好きであることを知られることが燐を傷つけると思い込んでいますから、燐が示すサインを「勘違い」だと思い込もうとします。

この点は読んでいてかなりじれったいです。

じれったさの根本は一回目のときに燐が激しく拒絶した理由が分からないことです。
その理由は物語の最後まで読んでも明確にはなりません。
読者それぞれが想像しなければならないのかなあ。

本作品は、物語の構成、つまり何をどの順番で読者に提示するかをもう少し検討したほうがより面白くなったのではないかと思います。
特に上の※の部分はもっと必要だったのではないでしょうか。

構成と同時に、物語の構造についても不満があります。

智は一回だけタイムリープする構造になっています。
言ってみればかなりシンプルです。
もっと過去の部分、楽器店店主と教頭の関係が若干の存在感を持ってはいますが、その点に深く入り込むことは避けてあるようですし、そもそも物語の根幹に関わるようなものではありません。

私は1/3ほど読んだ時点で、智のタイムリープは燐が起こしたのではないかと思っていました。
そしてそれにはアニマート・アニマートの曲の記憶が関係しているのだろうと思っていました。

その時点での私の想像をあらすじ風に書くと以下のようになります。

・重い心臓病で自分が長く生きられないことを知った燐は、高校に入学して人生の最後を楽しく過ごすことを願う
・河原で智と出合う。彼が弾いていたギターの曲に聞き覚えがあった
・一回目のルート
・病室で告白され激しく拒絶する (拒絶の理由は別途)
・燐死亡
・智激しく落ち込む
・燐の魂(霊)はその様子を見て彼をタイムリープさせる
・その後、さらに過去に行き、幼い自分にアニマートの曲を聴かせる
・二回目のルート
・燐二回目の死亡 2つに分かれていた燐の魂は一つになる
・智がバンドを続けることを決意
・燐の魂は智に自分の気持ちを告げ、昇天する

魂とか昇天とかのタームは別のものでも構いません。
私がざっと考えたこの構造でも、小説その他の作品で既出の可能性はあります。

しかし、店長と教頭の経緯を膨らませたり、他のエピソードを盛り込むことで、独自性はもっと出せるでしょう。

とまあ、素人がプロの作品の構造にまであれこれ難癖付けるのは、やはり私がこの物語を好きだからでしょう。

キャラはそれぞれ魅力的だと思います。
私が特に好きなのは会長かな。

会長のキャラは、朝倉涼子を彷彿とさせます。
但し本家「涼宮ハルヒの憂鬱」ではなく「長門有希ちゃんの消失」のほう。

彼女(会長)が二回目のルートで主人公に見せた態度は、もう少しその理由を明かして欲しかったです。
また、バンド再結成、メジャーデビュー後の彼女の様子が何も語られていないのも残念。

さて、燐が一回目のルートで主人公の告白を激しく拒絶した件。
これ分っかんないんだよなあ。

単純に考えれば、自分は死にゆく身だから、智を好きだったけれどそれを言うのは智に後々余計な負担を与えてしまうと考えてその気持ちを封印していた。
でも向こうから告白されて、その嬉しさと(自分が死ぬ)悲しさで動転してしまった、ということなのでしょうけれど。

まさか好きではなかったのに告白されたことで、ようやくできていた死ぬ覚悟が揺らいで動揺したってことではないですよね。

これは読者の想像というか推察に任せるのはちょっと重すぎるように感じます。

そして燐が残した手紙の内容も解せません。
「ごめんなさい」だけでは、何に対するごめんなさいなのか、考え得ることが多過ぎるのです。
私が考えた「ごめんなさい」の理由
・告白を受け入れられなかった 好きではなかった
・嬉しかったのに動転して拒絶した 好きだった
・自分が死んでしまうこと
・バンドを続けて欲しいと願ったこと

これを読者が納得できるように決着を付けるには、やはり上で私が考えた粗筋のようにせざるを得ないと思うのです。

まとめると、
・キャラは魅力的 燐は言うに及ばず会長も、
・ストーリーは楽しめる。都合のいい展開も2回目という特殊な状況で逆に面白い。
・構成はもうちょっと考えたほうがいい。
・構造はもう少し凝ったほうがよかった。
・読者の想像/解釈に任せる部分が多過ぎる広過ぎる、

終盤を読んでいて、もしかするとこの物語はもっと大きな構想だったのをページ数の制約からかなり削ったのではないかと思いました。
だとしたら、その残滓を感じさせないほうがいいんですけどね。

==

さてここで。
恥知らずな私は、自作の小説のうち本作と同じように過去に行く物語を紹介するのです。

温かい目で読んでもらえれば。ww
(と、紹介して早一年。ここからリンクをクリックしてくれる人は少ないなあ)

作品22 二速歩行 序章  ← DECO*27さんの二息歩行(正しくはそのPV)をベースにした二次創作

作品12 過去と未来の僕  ← キッドPさんのコガネイロの故郷(とき)をベースにした空耳小説。

==

2016/08/14 追記


私のこの感想のページ、以前からぽつぽつと検索で訪れる人があったのですが、
ここ数日増えてきたのでなぜだろうと思っていました。

本作の実写映画化が決まったそうです。おめでとうございます。
それを告知するページ → ガガガ編集部ログ 2016/08/08

ただ、具体的な情報はまだ出ていないようです。

1回読んだだけで読み返しもしないで書いた感想だから、
「あれが分からない、これが分からない」として組み立てている論旨が
ここを読んでいる全ての人に笑われているんじゃないかとビクビクしています。
 → そう思うんならもう一回読めばいいのに。
 → いや、それはそれで怖い。知らん顔しとこ。

このブログに感想を書いた本が映画やアニメになることが最近よくあります。
狙っているわけではありません。
読んだ上で感想を書くのは数十冊に一冊だから、その篩(ふるい)にかかる作品は
他の人が読んでも面白いと思うのでしょう。

B型気質の私は、人と同じでは嫌なのでできるだけ独自色を出したいという気持ちがあります。
でもあまり読まれない本の感想を書いても検索してくる人がいないだろうから、モチベーションが上がりません。
なので一般受けするであろう本を選ぶことになり、その上で感想の内容に少しは独自性を入れるようにしているのです。

ここを読む人にとってその独自性に少しでも意味が価値があればいいんですけどね。

思春期テレパス  感想
② 思春期テレパス

一つの日記で3冊挙げるつもりだったけど、検索を考えたら日記のタイトルを別々にしたほうがいいので、同日日記を3本とします。

思春期テレパス (メディアワークス文庫)思春期テレパス (メディアワークス文庫)
(2015/01/24)
天沢夏月

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男2人、女1人のゆるい高校生グループの話です。
ゆるいというのは、なんとなく一緒にいるという意味です。

その高校で友達の本音が送られてくる「本音メール」というサイトが流行ります。
メールの内容は他愛のないもので、冗談サイト的に楽しむものです。

しかし、あるとき、本当の本音メールが送られてくるようになります。
それは時には、返信することでその本音がなかったものにすることもできるのです。

こう書くと、ホラー的なものと思われるかもしれません。
でもこの物語の中では、誰もそのような捉え方をしません。
普通は気持ち悪いと恐れるとか、原因を探ろうとかそういう方向に行きそうなものですが、なぜかそのまま受け入れてしまいます。

物語の眼目が本音メールそのものにではなく、親しい友人の本音を知ってしまうことがそれまでの関係にどのような影響を及ぼすかにあるせいでしょう。

このグループに後から女2人、男1人がからんできます。
そのうちの一人の女の子が学校の屋上から飛び降りるのです。

全体としては、思春期の男女が人の気持ちについて考え成長していくという内容になっています。

私、人の気持ちに無頓着というか、建前をそのまま本音として受け取ってしまうことが多かったし、それは今でも殆どそうだから、その点では登場人物のいずれにも感情移入できませんでした。

しかし、周りの人の気持ちに敏感で、それ故に行動が妨げられたり、傷ついたりしている人が読むのは意味があるでしょう。

オカルコはキャラとしていい線いってるんだけど、ちょっと惜しいなあ。


犯罪者書館アレクサンドリア感想

半年間、機会がある度にamazonで著者名検索してようやくヒットしました。
届いたのが4/28。翌昭和の日一日で読み終わりました。

犯罪者書館アレクサンドリア ~殺人鬼はパピルスの森にいる~ (メディアワークス文庫)犯罪者書館アレクサンドリア ~殺人鬼はパピルスの森にいる~ (メディアワークス文庫)
(2014/04/25)
八重野統摩

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前二作が学校(予備校)を舞台にした青春ラブコメ風ミステリーだったのに対し、第三作となる本作品はちょっと毛色の変わったクライムミステリー(これ、ちょっと違うかw)でした。

正直言うと、「ビブリア古書堂の事件手帖」を彷彿とさせるこのタイトル、カバーイラストだと八重野作品でなかったら読まなかったでしょう。
実はビブリアも読んでいないのです。(ドラマは一回見て止めた)

ミステリーがメインの小説は積極的には読もうと思えないのです。
本屋大賞になった「謎解きはディナーの後で」はハードカバーを買って読んだ上で、後悔しました。(ドラマは全部見た)

この傾向は昔からで、ホームズですら1,2冊しか読んだことがありません。

でも、ミステリーを全く読まないということではありません。
自分なりに分析してみると、「~探偵シリーズ」「刑事・警察物」「~事件簿」といった類のものに興味が持てないようです。

コロンボとかよく見てたんだけどなあ。
逆にだからこそ面白みを感じなくなったのかな。
最近ではガリレオや福家警部補は見てた。(家族が見るから仕方なくということもあります)
サスペンスドラマは絶対に見ません。
あれ? これはテレビドラマの話だ。

小説はねえ。作者さん次第かな。

八重野フリークたる私だから、本作を読んだということです。
シャーレキアン風に言うとどうなるんだろう。ヤエネアン? 意味通じないや。w
シャーレキアンもトレッキアンも作者じゃなくて、作品ファンの呼称ですしね。


さて。さてです。ww
内容の感想です。

アレクサンドリアとか、夏目の動機とか、物語の根本部分が少し弱いように感じました。
これはソフトに関することが主です。

ハードにおいても、あれほどの建造物しかも強固なセキュリティーとなると、建築業ではないけれど似たような物を作るメーカーに勤めている私にしてみれば、設計、材料・機器調達、加工、組立、内装とかなり大規模な人員が携わるものを秘密裏に作って運用するのは、まあ、ファンタジーだよなあと思います。
メンテだって絶対に必要ですしね。

六彦と夏目の関係(心理心情的なものではない部分)は、なるほどそういうことかと納得できました。
でも夏目の設定そのものにかなり無理があります。(八重野さんもそれは承知の上で書いているのでしょうけれど)

それとね、全体を読んでいて感じたのは、現実感の薄さでした。
全ての登場人物がアレクサンドリアという舞台の上で芝居を演じているのを見ているような感覚と言えばいいでしょうか。

どれほどリアリティの無い設定の物語であっても、例えば入間人間作品や伊坂幸太郎作品を読んでいるときには、虚構の上に現実があって、活字の向こうに世界が広がっていることを無意識ではあっても感じます。
本作品ではそれが希薄なのです。

これは物語の多くの部分がアレクサンドリア内で進行していたことが一つの原因でしょうけれど、プロローグでの六彦の窮地やアーミンによる「行き止まり」での殺人すらも芝居の一場面にしか感じられないのです。

閉じた本の裏側で、登場人物達が役を離れて「やれやれ」と談笑している場面が想起されます。
なぜそう感じるのかは、自分でもまだよく分かりません。

八重野さんがこのような物語を好んでいるのだけど、自分の作品として物するにはまだ至っていないのではないかという、物凄く失礼な想像をしています。

アーミンというキャラは面白かった。
還りの会の柚舞プリズムの可苗の面白さとはかなりベクトルが違います。
ビジュアルから萌的なものを感じるかと言えばこれも違います。
(だって、あの設定、性格、口調は私の萌え属性とは全然違うんだものw)

六彦とラーメンを食べに行った、六彦の横で寝入ってしまった、六彦が寝込んだとき毎日見舞いに来た、六彦に性別を知られたときの反応、こういったところに可愛さを感じるからでしょう。全部六彦絡みだ。
これらのエピソードから、私はアーミンは女だと思っています。

夏目は、うーん。
上に書いた設定の無理さ加減と、彼女の態度から、感情移入はできなかったかな。
キャラとしては惜しいんだよなあ。
私はドブネズミではないとか。
(あの場面、リンダリンダは伏せておいて欲しかった。ブルーハーツで十分。自分が知っていることは寸止めを要求し、知らないことは情報をねだる嫌な読者だw)

カバーイラストのビジュアルも、悪くはないけれどもうちょっとと感じました。

六彦は、宮廷大である西都大、つまり旧帝大の京都大学学生ということで、その頭脳の冴えはよかった。
彼の語りで進行する物語が、八重野さんの文章に特有なリズム感とうまくマッチして無駄な描写がありません。
私はこれを待っていました。

でも巻き込まれ型で現状を追認してしまう性格は矯正の余地ありかな。


八重野さんは書店員だったのか。
多くの客が、作者その人だと知らないで作品を買っているのでしょうね。

本作にはホームズ、チャンドラー、遠藤周作まで引用がありました。
私は上に書いたようにホームズは2冊、チャンドラーは1冊しか読んでいません。
沈黙は中学生のときに読んだなあ。また読んでみるか。

色々不満を並べたけれど、今回も十分楽しめました。
次回作もLook forward to 。




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