|
 |
| プロフィール |
|
Author:たか号
妻と3人の子持ちです。 長女 A子中2 長男 B太小6 次男 C介小3 gatsutaka#mail.goo.ne.jp #を@にして下さい

|
|
 |
|
| 遅れてきた突っ込み 書きたいことは山ほどあるけど、暇がない。
だから、多分、どれも旬を過ぎた話題ばかりに
なりそうなブログ。 |
| ブレイブストーリー |
「デスノート」お預けのまま、家族で「ブレイブストーリー」を観に行きました。
原作は読んでいないし、新聞広告以外の細かい情報は知りませんでした。でも、映画館で予告編を観たとき、これなら子供に観せてもいいかと思いました。
うちは、大体において男の子が怖がりで、映画館で「怖い〜。外に出る〜。」と言い出すのがしばしばあった(ハリポタは勿論、千と千尋でも)ので、少し不安はありました。でも、下の子も一年生になり、ある程度は大丈夫になったようです。
また、うちが家族揃って映画に行くのは封切後かなり経ってからのことが多いです。いつも同級生のあの子もあの子も観に行った後という状況だったのに、今回は公開二日目という奇跡的に早いタイミングで行くことになりました。
結果として、子供三人は堪能したみたいです。かなり喜んでいました。
さて、内容ですが。
映画を一つの作品として評価すると、全体としては面白く、楽しめるものであると思います。 各キャラクターもそこそこ個性があって、魅力的ではあります。
だだ、かなり長い原作(文庫本で3冊[上,中,下]/4冊[1,2,3,4])を2時間程度にまとめてあるためか、あちこちに破綻がありました。
観終わった後で、小1のC介すら「あそこ、おかしかったよね。」と指摘する箇所があったくらいです。 ファンタジーであることを差し引いても、辻褄が合わない点があるのはいただけません。
映画ではなく、テレビ番組として続き物にするような内容なのでしょう。
また、主人公(亘:わたる)の父親が「他の人と暮す」といって、有無を言わさず家を出て行き、その直後母親が倒れるというシチュエイションは、子供向けの話としてはちょっと酷かなあと思います。
亘は事情の説明は一切なく、家庭崩壊という結果だけが主人公に突きつけられ、その家庭を取り戻すために「最後まで行けば何でも願いがかなう」という旅に出ます。 大人の側があまりに無責任に描かれているので、極端な見方をするとこの家庭を取り戻してもあまり意味がないのではないかとも思えます。
普通の小学生が冒険を始めるモチベーションとしては、これくらいないと成り立たないのは分かりますが、もっと他の状況でもよかったのではないでしょうか。
うちの子達はこの部分をどう解釈したらいいのでしょう。ましてや、両親の離婚で悲しい思いをしている子がこの映画を観たらどう思うでしょう。
配慮が足りないように思います。
厳しい現実を知らせることも意味があるという言い訳は受容できません。楽しむために観に来た映画でそんな思いをする必要はないと思います。
「ブレイブストーリー」というタイトル自体、意味を説明しないと子供には分かりません。それを言えばスターウォーズだって同じようなものではあります。ただ、これは「勇気物語」とするよりは「ブレイブストーリー」のほうが格好いいですね。
クライマックス近くに、心の本音部分、弱い部分が自分の分身として現れ、亘がそれを倒すシーンがあります。大人の目で見ると「ありがち」な表現ですが、子供にはどう映ったでしょうか。 大体において、子供ってのは大人が「ここに気付いて欲しい」と思う場面はスルーで、他のところばかり観ているものです。(自分でも思い当たることがある)
亘の声は松たか子がやっていました。殆ど全員が専門の声優ではなかったので、特に力量の違いを感じることはありませんでした。というか、誰がどのキャラの声を演じているか知らなかったので、気に留めなかったのかもしれません。 (演じている人の顔が浮かんで困ったハウルとはえらい違いです。)
ただ、亘がライバルの芦川を「あしかわ」と呼ぶのですが、それが「あしかが」と聞こえてかなり後のほうまで彼のことを「足利」だと思っていました。 そしたら、A子も同じように聞こえていたそうで、しかも彼女は今社会科で歴史を習っているので、「あしかが→室町幕府」と連想していたそうです。
|
| 中央道に花を添えるとこだった |
一日の運転は最大で300Kmと書いたが、思い返してみるとずっと昔それと同じ程度を走ったことがあった。
私は車に興味がなかったので、学生時代に免許を取りに行く気がしなかった。しかし、就職が決まり卒業が迫ってくるとそうも言っていられなくなり、何と卒業の年の2月から自動車学校に通いだした。
最初に電話した所は、「今からで3月中は無理です」とすげなく断られ、もう一校が「何とかしましょう」と言ってくれたので、ちょっと遠いけれどそこに入学した。
で、全ての課程を最短でクリアして仮免、路上検定も合格し、その週に合格しないと翌週は東京という時点で県の試験場での最後の学科試験を受けてこれも何とか合格。ほやほやの免許を持って上京ということになった。
当然、東京で運転する機会はなく、ずっとペーパードライバーだった。
入社2年目の秋、職場のレクレーション担当になり、社員旅行の幹事をすることになった。他は同期入社の女子社員3名。彼女たちはともかく、私は東京近郊の観光地など知るよしもなく、先輩に過去数年の行き先を聞いて、それと違う所というだけの理由で、富士周辺に行くことにした。
新入社員から定年間際のおっさんまで参加し、取締役も来るという一泊旅行は、そりゃ全員が満足するような企画はできない。
会社に報告するために行ったという事実だけが重要なので、特に凝ったことはしないでごく普通の旅行にすることにした。私自身はどこであれ初めて行く場所なので、それでも十分満足であった。しかし、考えてみれば、富士山なんて普通に誰でも何回でも行っているから社員旅行の行き先になっていなかっただけなのだが、それに気付いたのは終わった後だった。
ここで、困ったことが一つ。 先輩がニコニコしながら「社員旅行は幹事が事前に視察に行くことになってるからね」と言う。「あの、それ、どうやって行くんですか?」「そりゃ、車で行くしかないだろうね。」「私、運転できないんですけど。」「免許持ってるなら大丈夫さ。」
3人の女性幹事は端から運転する気がなく、「命は預けますけど、あげる気はありませんから」などと言う。
平日に休暇を取って、不安一杯のまま新宿でレンタカーを借り、当日命が惜しくなってドタキャンした一人を除いた3人で出かけることになった。
後部座席に2人を座らせ、「あなたは右担当、あなたは左担当。私は前だけ見てるから。」と役割分担して発車した。
すると、いきなり車の調子が悪い。「あれ、変だなあ」と思っていると、後ろからレンタカー会社のお姉ちゃんが走って追いかけてくる。何だろうと止まったら、「サイドブレーキを解除して下さ〜い」と叫んでいる。「あ、すいません。」
不安はますます増大する。
初台から高速に乗るのに、入り口は左にあるものと思っていたので無理な車線変更して右から入る。高速道路は乗ってしまえば楽ではあるが、誰もが感激するという「中央フリーウエイ」の歌詞そのままの景色を見る余裕もなく、どうにかこうにか河口湖までたどり着いた。この間、後部座席の二人はずっと引きつった顔をしていた。
そのままスバルラインで展望台(五合目?)まで行く。平日なのに駐車場は結構混んでいて、高速でパーキングエリアに寄らなかったので初めての「車庫入れ」に大騒動しつつもこれもなんとかクリアした。
そこからまた下って、見物するところと、ホテルの下見をする。 ホテルでは宴会場のチェックが一番重要な課題だった。
もう一つの目玉である富士急ハイランドでは、受付で「社員旅行の下見で来ました」と言うと事務所に通され、そこで一日無料パスを貰った。こんなことなら先に来ればよかった。
できて間もないムーンサルトスクランブル(これもう無くなってるみたいですね)は一回きりの限定だったが、それ以外の遊具は乗り放題。十分に堪能してから帰路につく。
帰りの中央道は、一日運転して慣れてきたので比較的余裕で運転していた。大月までは道もガラガラなので気持ちいい。それで、よせばいいのに持参したカセットで音楽をかけようと思った。助手席に置いた袋をまさぐり、1つを取り出す。セットしようとしたそのとき、片手で持ったハンドルが大きくぶれた。
「どひゃあ」「わっー」「きゃー」の三重唱の中、車はラインを大きく踏み越え、追い越し車線を斜めに進んで右側路肩にぶつかる寸前で今度は左を向いた。
急いでブレーキを踏む。ものすごい音を立てながらも、幸いスピンすることなく車は停止した。
それからの後部座席からのブーイングの嵐は省略するとして、あとはひたすらおとなしく運転に専念して、なんとか新宿まで帰り着いたことだけを報告しておく。 社員旅行自体は無事に終了。
結局その後も結婚して車を買うまで、一度も運転することはなかった。 車を買ってからも、しばらくはかみさんが運転して、私は道案内だけを担当していたが、徐々に慣れさせられ、今では殆ど私が運転担当である。
|
| あなたの敏感な部分を刺激してごめんなさい |
東京で勤めていた頃、寮が横浜緑区にあって東急田園都市線で通勤していた。
朝はいつも7時少し過ぎ、急行の止まらない駅だったので各停に乗る。 座席は空いてないけれど、つり革はまだ余裕があるので、ドア近くの場所に立っていた。 鞄を網棚に乗せ、駅の売店で買った日経新聞を立ったままサラリーマン読みする。 縦に折ったり、横に折ったり、裏返したり、よくまあそこまでという感じである。 (今考えると、そうまでして読む必要はなかったのだが、当時は「読んでおかねば」という強迫症だったのかもしれない)
ある日、いつものように縦折り(従って、新聞の高さは元のまま)で読んでいたら、私の前に座っていた50代くらいのおっさんがそれを手で払いのけようとする。 理由が分からなかったので、なんじゃこのおっさんと思いながらそのまま読み続けた。
すると、そのおっさんは私の新聞を鷲づかみにして怒鳴った。
「こらっ!さっきから何だお前は!」 「(はぁ)?」
「人がおとなしくしてれば、何だ!」 「(はあ)?」
「お前なんかに、新聞読む資格は無い!!!」 「(何ですとう)!」
一方的にどやしつけられた。
おっさんはすごい形相で私を睨んでいる。 場所は溝の口を過ぎたくらいであったろうか。
それからおっさんは自分の頭を撫でた。 その動作でようやく状況が理解できた。
つ・ま・り、 私の縦折りした新聞の下の角が、おっさんのハゲた頭に当たっていたのだ。 多分、何度も。
「ああっ。すいませんでした。」 私はあわてて新聞を畳み、網棚の鞄の上に乗せた。
「お前なんかに、新聞読む資格は無い!」 おっさんはもう一回繰り返した。
少しパニクッていたので、周りの乗客の反応はよく覚えていないが、 「おっさん、そこまで言わなくてもよかろうに」 という雰囲気だったと思う。
今の私だったら、 「これはこれは、知らなかったとはいえ、あなたの一番敏感な部分を刺激してしまって申し訳ありませんでした。その点は謝ります。しかし、新聞を読む資格云々まで仰るのは大人気ないとお思いになりませんか。」 くらいの切り返しを言うと思うが、当時は上京してまだ数年目の田舎出の若造であった。
何も反論できず、うつむいてそのまま青山一丁目まで屈辱に耐えたのである。 このオヤジの顔を忘れてなるものかと、その顔のシミ、浮き出た血管、額の特徴などを必死で見たが、悲しいかな人の顔を覚えきれない性格(10/28のエントリー参照)のため、すぐに忘れてしまった。
まあ、あのおっさんにとっては一番触れてほしくない所だったので、余計に激昂したのかもしれないが。 今70代くらいだろうか。もうそろそろ、くたばってないかな。←まだ恨んでます
教訓:
いかに相手に非があろうとも、公衆の面前でそれを厳しく指弾し罵倒してはいけない。
物言いによっては、逆恨みされる。 今の若い人だったら、間違いなく逆切れする。(偏見込み)
あくまでソフトに、相手をたしなめること。
|
| ご恩は忘れておりません |
中学3年の夏休みに一人旅に出かけた。 コースは次のようなものである。
・省略 ・博多から下関まで行き、当時まだ走っていたSLに乗る ・寝台急行で鳥取へ ・砂丘見物、国民宿舎に泊まる ・因美線で岡山へ ・新幹線で東京へ ・首都圏の親戚宅を泊まり歩く ・寝台特急で帰宅
全体で15日程、メインは東京見物であったが、前半の列車(当時まだ国鉄)での移動のほうがより印象に残っている。
山陰本線のSLは、普通のダイヤとして走っていたもので、物心付いてから初めてで、また現時点では最後のSL乗車であった。ちなみに、そのSLのダイヤが一旦廃止になったあと、観光用として復活させたのが「SLやまぐち号」である。
鳥取では一旦国民宿舎砂丘荘に荷物を置いてから砂丘見物に出かけた。部屋は大部屋でかなりの数の人との相部屋であったが、さすがに中3の一人旅はめずらしく、同宿の人からかわいがってもらった。
特に、種子島から来た南さんという人には何かとお世話になり、砂丘見物につきあってもらったし、宿舎内でのあれこれの面倒を見てもらった。翌日の岡山行きの列車も同じだったので、新幹線に乗るまで一緒に来てもらい、ホームで名刺を貰って別れた。
東京に着いてからは、浦和、早稲田、国立、大磯と親戚宅を泊まり歩いた。
最初に浦和の伯母の家で洗濯したときに、岡山駅でもらった名刺をシャツのポケットに入れたままにしていて、気づいたときにはボロボロで何も読めなくなっていた。
帰ってからお礼の手紙を書こうと思っていたのに、それを果たせないまま現在に至っている。
それから幾度かその人を探そうとしたが、名前がはっきりしないし、それ以外の情報もあやふやなのでうまくいかない。
昭和40年代後半に、種子島の電電公社かその関連する会社にお勤めだった南さん(下の名前は一文字で、確か「加」という字に似ていた)、お世話になったご恩は忘れておりません。 いつか、直接お会いして、あのときのお礼をしたいと思っております。
国鉄とか、電電公社とか、どうにも話が古いねえ。
|
| Pの悲劇(後編) |
9月17日(月)
午前中。かみさんがダンボールを持ってその幼稚園に行く。うちの子が通っている幼稚園ではないので、近所でそこに子供を行かせている家の奥さんにも同行してもらった。
最初、用務員風のおじさんに「ああ、それなら子供達も喜ぶし、多分引き取ると思いますよ」と言われ、少し安心して職員室へ。若い先生に説明すると、好意的に聞いてくれたので「良かった」と思っていたところに、(おばさん)園長が現れた。
「あらあらあら。そうですかあ。でもねえ。前にもね、うちの木から落ちたツバメの雛を持ってきた方があってね、園で引き取りはしたんだけど、巣が高くて戻せなくて、結局xx先生が家につれて帰って飼うことになって大変だったんですよねえ。お宅、お子さんがいらっしゃるんでしょう?そりゃあお宅で飼われてほうが喜びますよお。それにこの子はもう直ぐ巣立ちそうだから、そんなに長くはならないだろうし、それがいいですよお。」と、やんわり、きっぱり断られた。
作戦ミスもあったと思う。いきなり「引き取ってくれ」と言う前に、「親鳥もやって来ますし、巣に戻してあげたいので、探してもらえませんか。」とでも言えばまだ対応が違ったのかもしれないけれど、後智恵である。
帰るときに、うちが近所でしかも小さい子がいることに気付いて、さすがにまずいと思ったのだろう。その園長が寄ってきて、「すいませんねえ。ご近所だったら、運動会の練習、うるさくないですかあ。」と愛想を言うので、かみさんは「ええ。うるさいです。」と言い捨てて帰ってきたらしい。
で、しかたなく家に連れて帰って、遊びに来た他の奥さんにその話をしたら大受け。「あの幼稚園の園長ならさもありなん。」 箱を外に出していたら、また親鳥が餌を持ってきた。よく見ると、大きなカマキリらしい。しかもお腹に卵があるやつ。それを食べさせようとして、失敗して箱の中に落としてしまった。
親鳥が行ってしまったあと、「xxさんやってよ。ボーイスカウトの引率で慣れてるでしょう。」「何言ってんの。カマキリなんか触らないわよ。飼い主がやるべきでしょう。」とお互いに押し付けあって、結局かみさんがやることになった。割り箸でそのカマキリをつまんで雛の口に運ぶが、大きいのでなかなか入らない。やっとのどに押し込んだが、尻尾はまだ口からはみ出していた。でも、満腹になったのか、鳴かなくなって、目をつぶって寝てしまった。
以上かみさんから聞いた話。
9月18日(火)
かまぼこを切ってあげたらよく食べた。
それを買ってきたかみさんの母が、「ああ、もったいない。それ鱧(はも)の上等のかまぼこなのよ。」
昼間、外に出していたら、網の隙間から逃げ出して飛んで行った。「良かった巣立ちした。」と思って、「逃がした」と怒る子供をなだめて外出し、帰ってきたら鳴き声が聞こえる。
探したら、隣の家の車の所にいた。丁度隣のご主人が出かけようとしているところで、「すみません。それうちの鳥です。」と言って捕獲した。
以上かみさんから聞いた話。
9月19日(水)
朝、出勤前にハムを一切れ与える。寝起きで元気がないのか、いつもの朝ほどには鳴かない。
昼休みにかみさんから電話があった。 「ピーちゃんの様子がおかしい。箱の底にぺたーっと座っていて元気がないし、鳴かない。お父さん(私の父)に電話して動物病院に行ったほうがいいでしょうかって聞いたら、まだそこまでせんでよかよって言われたんだけどどうしたらいい?」「そんな言われても、こっちもどうって言えんよ。外に出しといたの?」「うん。でもパラソルで影にしていたから日は当たっていないはずだけど。」「水はやった?」「うん。牛乳を少し。」「県庁には電話したか?」「そんな状況じゃないもの。」 とにかく、もうしばらく様子を見ることにした。
17時半再び電話が入る。 「ピーちゃんが瀕死なのよお。どうしよう。」「どうなっている?」「足はだらーっとしてるし、鳴かないし、何も食べない」「水はやった?」「無理やり口を開けて牛乳飲ました。」「うーん。もう動物病院は閉まっとるやろし、明日までもったら連れて行くしかなかね。」「今日は早く帰って来れる?」「何で?」「いたたまれないのよう。」 結局19時に帰ることにして、途中まで車で迎えに来させる。後ろ座席の子供は皆寝ていた。 「出るとき見たけど、もうくたーってしてるのよ。心臓は動いてるみたいだったけど。」
家に着いたら、既に死んでいた。
21時父から「どうなった」と電話が入り、死んだというと、「鳥の種類によっては塩分をやってはいけないということを聞いたことがあるから、もしかしたら昨日のかまぼこがよくなかったのかもしれんなあ。まあ、巣から飛び出すようなのは本来生きていけなかったのだから仕方ない。」 5日間の思い出と、1枚の写真を残して逝ってしまった。
9月20日
朝4時半に起きて、娘と一緒に近くの公園の木の下に埋めてやる。空には冬の星座が煌めいていた。
完
その写真を載せたかったのですが、どうしてもみつかりませんでした。 出てきたらUPします。
|
| Pの悲劇(前編) |
実はこのブログを始めるはるか前から、日記のサイトを立ち上げるつもりで書き溜めていた文章があります。
でも実際には、私の性格からいって3日坊主に終わる可能性が強く、なかなか踏み切ることができませんでした。
古いパソコンの底を漁ってたらその頃の文章が出てきましたので載せることにしました。
日付は2001年、タイトルは高橋留美子さんの本からのパクリです。
9月15日(土:敬老の日)
夕方に子供を連れて近所を散歩していたら、幼稚園の敷地のコンクリート擁壁下の草叢から二羽の小鳥が飛び出しできた。一羽は高く飛んで逃げたが、もう一羽はまた草叢に落ちた。近寄るとまた飛ぼうとするが、高く飛べないらしく、短いジャンプを繰り返すだけだった。よく見ると、どうも雛らしい。殆どまだ飛べないのに、巣から出てしまったようだ。
そこは、左は6mほどの擁壁、右は6階建てのマンションに挟まれた歩行者専用道路で、擁壁の下には30cmほどの幅で土が出ていて、夏草が繁茂している。
擁壁の上は幼稚園の築山で、その周囲はフェンスで囲われている。フェンスの内側は築山の裾になっていて、恐らく園児がそこまで来ることは稀なのだろう。フェンスの外には人一人が通れるほどの空間があって、すぐ擁壁のふちになっている。
周りは最近造成された団地で、戸建て住宅と空地に囲まれている。野鳥の巣ができるような大木は辺りにないし、普通の団地並に人通りや車の通行があるから、空き地に巣があるとも思えない。となると、擁壁上の築山の裾に巣があってそこから落ちてきたとしか考えられない。
多分、雛が落ちた直後で、親鳥が必死に救おうとしているとことに通りかかったのだと思う。親鳥は人間が近づいたので雛の側に寄ることもできず、マンションのベランダにとまってこちらの様子を見ている。
子供が近寄ると雛は逃げようとするが、擁壁の途中まで飛んではずるずる落ちてくる。幼稚園は当然休みで、翌日の日曜日も誰もいないはずである。
「どうするう?」「どうしようもないからこのままにしとこう」と、冷たいようだがそのまま散歩を続けた。とこえろが、近くの学校のグラウンドで1時間ほど遊んで帰ってくると、雛の鳴き声が聞こえる。探してみると、最初に見つけたところから少し離れた駐車場にある車の上に止まって鳴いている。周りを見ても、もう諦めたのか親鳥はいない。
放っておくと、車に轢かれるか、野良猫にやられてしまうだろう。仕方がない。腹をくくって雛を捕まえ、手のひらに抱いて家に連れて帰った。
家に着いて裏庭に廻り、たまたま置きっ放しになっていた空のダンボール箱にいれた。
9月15日(続き)
さて、ダンボール箱に入れはしたものの、蓋を少しでも開けると逃げようと暴れ、何度か脱出して庭を飛び回ってしまう。その都度捕まえて箱に戻し、ようやく静まってくれた。
餌は何をやればいいのか。とりあえずバッタをあげようということになり、子供に捕りに行かせた。近所に空き地が多いので、バッタには事欠かないが、いざとなるとなかなか捕まらないらしい。やっと捕ってきたのを箸でつまんで食べさせようとすると、食べるのが下手なのか、やるほうが下手なのか、うまく口に入らない。そのうちバッタが逃げ出して、それを手で抑え、指でつまんで口に運んでやるとようやく飲み込んでくれた。 これは、先が思いやられる。
次に、かみさんが料理していた鶏肉の生の部分を包丁で切ってもらい、それをあげると、これも苦労しながら食べた。 まあ、なんとかなるか。と、そろそろ日も暮れてきたので、箱を玄関に移し、蓋をして暗くしたら、寝たらしい。
それから、私の実家の父に電話で「どうしたらいい。何をやったらいい。」と相談すると、「そりゃあ、色々食べるだろう。バッタもいいし、ミミズもいい。」「そんなには採れんよ。」「ハムなんかも食べるかもしれん。何にしても、命に縁があったら生き延びるだろう。」
9月16日(日)
朝から、餌をよこせと鳴いている。ハムを切ってやると食べた。子供を朝飯の前にまたバッタを捕りに行かせたら、結構大きいのを捕ってきたので、これは食べきれないだろうと逃がすことにする。
朝食後、ディスカウントストアのペット用品コーナーに行って、藁の巣と粟の餌、注射のような餌遣り器を買う。本当は生餌を買いたかったが売っていないのでしょうがない。「粟なんか食べるかあ?」
その帰りに図書館に寄って、図鑑を見る。しかし、成鳥の絵や写真はあるが、雛のものはないのでどれなのかよく分からない。砂浴びしているヒバリの写真がそっくりだったけれど、まさか違うよなあと思う。
午前中に、実家の両親がミミズを沢山捕って様子を見に来た。 買った器具に粟を詰め込んで(スポイト風に吸っても全然入らない)口の中に押し込むと、どうやらこれも食べるようだ。それから、牛乳をやるとこれも飲んだ。
父が言うには、「声を聞きつけて親鳥が餌を持ってくるかもしれんから、本当は籠に入れて外に吊るしといたほうがいい。」とのこと。でも、まだそのために籠を買う気にはならない。
ところが、夕方になると本当に親鳥がやって来た。その姿から、ヒバリでないことは分かったが、では何なのかというと皆目分からない。ヒヨドリのような気もするが、あれはもう少しずんぐり大きくなかったっけ。
ダンボールを庭に出してやって、蓋代わりに付けていたバーベキューの網をほんの少しずらしてやる。近くで見ていたら、親鳥が寄ってこれないので、家に入って様子を見るが、子供が騒ぐので、近くまで来ては逃げていく。
そうするうちに日が暮れて、結局餌をもらえなくてお腹がすいたらしくピーピー鳴いている。しょうがないので玄関に入れ、捕っておいたバッタなどを与えて蓋をした。
その夜、「断られるかもしれないけど、幼稚園に引き取ってもらったら」ということになった。断られたら、県庁の野生動物課に相談してみよう。
|
| 再会の場面で私は |
このエントリは Morning Gloryのユキさんの作品「彼の事情 彼女の事情」にインスパイアされて書きました。ユキさんどうもありがとう。
昨日のエントリの続きです。そちらもお読み頂ければ幸いです。
高三の夏の終わり、土曜の昼下がり。学校からバス停への道を一人で歩いていると、隣の女子高の制服を着た女の子が駆け寄ってきた。
「あの、××君でしょっ? 私、○○です。小学校で一緒だった。」
田舎で生まれ育った私は、ちょっと背伸びして家から少し離れた市の高校を受験し、知り合いが一人もいないその高校に下宿から通っていたが、まわりになじめず孤立していた。 中学では生徒会長をし、部活はサッカー部、仲間とバンドのまね事をしてコンサートを開くなどしていたのに、高校生活はそれと比べてあまりにギャップのあるものであった。
2年の終わりの春に父の転勤で実家が引っ越すことになり、借家住まいになるので私の下宿代が出せなくなったと言われた。それで、転入試験を受けて高校を変わることになった。
新しい高校は、そもそも一年間しか通わないので部活や行事に関係ない立場であったし、クラスの中ではおとなしくしていた。それまでの二年間で私の性格は相当変わってしまったようだった。リーダーシップはどこかに行ってしまい、積極性が消え、新しいことを始める意欲を失っていた。幸い、まわりが暖かい無視という扱いをしてくれたので、居心地が悪いということはなかった。
大学受験も段々迫ってくる。学校に行く以外は、家で勉強するだけの日々を送っていた。 そんな生活にも慣れた頃のことだった。
「えっ○○さん?うわあ、久しぶり。えーと、8年ぶりかあ。」 「そんななるねえ。メガネかけてるから最初分からなかったけれど、やっぱり××君だったんだあ。」 「メガネは小6からね。今、家はこっち?」 「ううん。前のまま。寮に入っているの。××君は?」 「春に一家で引っ越してきて、高校転校したんだ。」 「へえ〜。」
彼女とは幼稚園から小学4年まで一緒だった。
小さな町の小学校だったので一学年2クラス、3年と4年のときは同じクラスで2学期の学級委員だった。学級委員は2年生から各学期ごとにクラス内での選挙で選ばれ、男子が正、女子が副と決まっていた。私は、2年から6年まで、毎年2学期の学級委員であった。選挙といっても人気投票みたいなものだから、要するに一番人気ではないけれどその次に選ばれる存在だったということだろう。
学級委員の仕事は、朝礼や学級会の司会、授業の始めと終わりの起立礼の号令かけ、月一回の全校学級委員会への出席、その他クラスの雑用係という感じである。
全校学級委員会は土曜の授業の後に開かれていたから、それが終わったときにはクラスの他の子は誰も残っていないので、二人で一緒に帰ることもあった。
5年生になるとき、彼女は転校していった。同じ県の中の端から端への引越しで、小学生の私ににとっては遥か遠い所に行ってしまったような感じだった。
6年生のある日、同じクラスの女の子が、彼女から届いた手紙を学校に持ってきた。 私はその子に頼み込んで封筒を見せてもらい、住所を書き写した。
その日、家に帰ってから手紙を書いた。内容は他愛のない現状報告みたいなものだったと思う。しばらくして返事が来た。私からの手紙をとても喜んでくれている文面だった。それから3年程、ときどき手紙のやり取りをした。
中学生になった私は、別の小学校から来た子に好意を持っていた。その子は私と一緒にバンドをやっていた仲間の一人と付き合っており、私とその子の間に何かがあることはなかった。その頃の私は、自分がどういう気持ちでいるのかよく分からなかった。その間も彼女との手紙のやり取りは続いていたが、いつの間にか途切れてしまっていた。
高校に進み、環境の変化で悩んでいるうちに彼女のことはすっかり忘れていた。 そして、突然の再会。
「大学どこに行くの?」 「う〜ん。ここの国立狙ってるんだけど。」 「大変だねえ。頑張ってる?」 「うん、なんとかね。そいじゃね。」 「うん、そいじゃ。」
私は彼女とまた会う約束をすることもなく別れた。そしてそれから一度も会うことはなかった。
大学を出て東京で就職したあと、会社の独身寮で受け取った小3のときの担任の先生からの年賀状にこう書いてあった。 「元気でやってますか? 先日○○さんが訪ねて来てくれました。結婚して子育てに頑張っているようです。」
こういうのを風の便りって言うんだろうなあと思ったそのとき、私は理解した。 「あの頃からずっと、俺は彼女が好きだったんだ」と。
東京の会社を辞めて地元に戻った私は、今の職場への行き帰りのバスの中から、あの時の彼女と同じ制服を着た女子高生たちの姿をまぶしく眺めている。
もし今、あの再会の場面に戻ることができたら、私は彼女に何と言うのだろうか。
|
|
 |
|