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遅れてきた突っ込み
書きたいことは山ほどあるけど、暇がない。 だから、多分、どれも旬を過ぎた話題ばかりに なりそうなブログ。ここでのハンドルはたか号ですが、小説などはgatsutaka名で書いています。
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コクリコ坂から感想 映画について改めて
 映画「コクリコ坂から」は比較的単純なラブストーリーで、しかもその恋愛の始まり部分を描写しているに過ぎません。

 メインの出来事は2つ。
 高校の文化部部室棟の建て替え反対運動と、主役二人の恋および本人達が知らなかった血縁関係です。

 まずは前者から。

 映画の観客は最初からカルチェラタン取り壊し反対派の意見を刷り込まれますから、それが当然という気分になります。
 しかし冷静に考えれば、水沼、風間をはじめとする反対派がなぜそれにこだわるのかはあまり明確ではありません。
 明治時代の建物ですから古びて不便なはずで、当初のアンケートで生徒の半数以上が取り壊しに賛成しています。

 1950年代から60年代にかけて世界を席巻した学生運動について、その政治的背景や評価をここで縷々述べることは差し控えます。
 運動の目的の一つとして単純に大人への反抗があったのは間違いないでしょう。
 カルチェ保存運動は、その描かれている雰囲気から見て、誰か裏のある扇動者がいて学校及び理事会の方針に反抗するだけのために起こされた運動ではなさそうです。

 海が最初に文芸部部室に行ったとき、考古研の部員が部屋の隅で「このままでは廃部にされてしまう」と話しています。
 社会科系の部活サークルは学生運動の温床でしたから、学校側に部室棟の建て替えを機にそういった部活を廃止する思惑があったとしても不思議ではありません。
 ただ、映画を見てそこまで深読みする人はまれでしょう。

 なので若干「ごまかされた感」は残りますが、反対運動の動機に政治的な背景はなく、純粋にあの建物に愛着のある生徒達による保存運動であったと理解することにします。

 それと方法が良かった。
 海の発案によるカルチェ清掃活動は多くの女子生徒を巻き込み(その勧誘がどうやってなされたのか描かれていないのがちょっと残念)、OBの協力、生徒会長水沼の強権発動もあって、観客の予想を超えた規模で実施されます。
 活動の進捗にもとなって参加生徒が増え、取り壊し反対派も増えていきます。
 アンケートの劣勢で思うように動けなかった水沼にしてみれば正に「メルは幸運の女神」ということでしょう。

 これが授業ボイコットとか、集団で校長室に雪崩れ込んでの脅迫じみた交渉という方法などであったら賛同者は増えないでしょうし、何より観客の共感が得られません。

 清掃活動の前にカルチェ内での集会と、その翌日の全校討論会が行われています。

 自転車で通りかかった俊が「まだ大荒れ」と言っていましたから、カルチェ住人にも賛成派がいるか、活動方法で意見が合わなかったりしているのでしょう。

 討論会の経過は、発言妨害とそれを阻止しようとするグループの肉弾直接対決、会場に現れた教師をやり過ごすための両派協力しての合唱など少しコミカルに描かれています。
 あれをシリアスにやられたら観客が退屈するでしょう。

 俊が「保守党のおやじどものようなことを言うな」という一方で、「古くなったから壊すと言うのなら、君たちの頭こそ打ち砕け」と真逆ではないかと思うようなことを口にしています。
 これどっちなんでしょうね。
 討論、ディベートは、論理の整合性よりもいかに相手を言い負かすかに重さがあります(偏見だったらごめんなさい)。
 あの辺りは、行動力があって口も立つという俊の側面を表現しているのだと見たほうがいいのかもしれません。
 実際、その様子を海が頬を染めて見ています。

 徳丸理事長を訪ねたときに「なぜ清涼荘を残したいのかね」と聞かれた海が「好きだからです」と答えています。
 海は当初はこの運動に無関心でした。妹の空に頼まれるまでカルチェに行ったこともありません。
 カルチェを好きになったのは、清掃活動を行ったこと(それが楽しかったこと)、カルチェ住人の気持ちに打たれたこともあるでしょうが、反対運動をしている俊を好きになったことが大きいと思います。

 元々「運動」に興味のなかった女の子が、何かのきっかけで入り込んで行くという状況は実際の現場でよくあったことなのでしょう。物語りでも、例えばつかこうへいさんの飛龍伝などがあります。

 本映画での「運動」はそれ自体がテーマではなく、あくまでも二人の恋、もしくは二人の出会いのための道具立てです。
 運動の対象、その方法、いずれもいい選択がなされていると思います。

 次に後者のほう。

 俊と海が異母兄妹であるという設定は、俊の「安っぽいメロドラマだ」という発言を引くまでもなくありきたりです。
 生き別れとか、産院での取り違えとか、記憶喪失とか、手を変え品を変え昔から色々な物語が生み出されています。
 本映画の生まれたばかりで両親が死に、父親の親友が戸籍を偽った上で別の夫婦に預けたという設定も、本質的には他の設定と大きく変わるものではありません。

 結果的に二人は兄妹ではありませんでした。
 ちょっと極論になりますが、私はそれはどうでもいいのではないかと思います。
 つまり、俊と海の恋愛にとって、兄妹であるかもしれないという状況そのものがどうでもいいということです。

 二人ともそのことで苦悩していますから、どうてもいいという言い方はおかしく聞こえるかもしれません。
 映画のその後を考えると、兄妹だったのかそうでなかったのかは重大です。

 それを敢えて「どうでもいい」と思うのは、勿論理由があります。

 俊と海の出会いは一つの恋の始まりとして自然でキュートです。
 あれ以上の演出は不要でしょう。

 父親が同じであることを知った俊は海から距離を置くという行動を取ります。
 この行動は分かるようで、ちょっと分かりにくいです。
 この映画は海をメインとして扱っていますから、俊があのような行動を取るに至るまでの心の動きはあまり描かれていません。
 海の側から見れば不可解な行動にしか写りません。

 単純に、どう接したらいいのか分からなくなったのかもしれません。
 好意的に解釈すれば、俊は俊なりに懊悩し、苦しんだあげくに海を傷つけないための手段としてあえてあのような行動を取ったのだと見なすこともできます。

 これに対する海の態度が面白いです。
 好意を持っている相手に避けられていると悟ったら、普通だとうじうじと悩んだり、反発したり、自分も距離を置こうとするでしょう。

 しかし海は学校帰りに待ち構えて、本人に直接問いただそうとします。
「嫌いになったのならそう言って」という科白は、それが肯定されたときどうするつもりだったのでしょうか。

 この科白の持つ意味は、その直後に兄妹であることを告げられたせいで少しぼやけてしまいます。
 しかしこの科白を言えることこそが、映画の作り手(それが吾朗監督なのか、脚本を書いた駿監督なのかは分かりません)が海に与えた芯の強い、まっすくな性格の現われだろうと思うのです。

 そして海の重要な科白がもう一つあります。
 海は東京からの帰りの電停で「血がつながっていてもいい。風間さんのことが好き」という告白の言葉を吐きます。
 海のあの性格でなければ言えないこの科白によって、二人の関係は血縁があるとかないとかいう次元から離れた、強い絆に変わったのだと思うのです。

 これが、兄妹であるかもしれないという状況はどうでもいいと私が思う理由です。

 ここまでをまとめると、本映画はカルチェラタン保存運動という学校でのイベントを通じて知り合った俊と海、二人の恋愛を、海の際立った性格を軸にして描いた物語であるということになります。

 私は、その海の性格に惹かれ、その姿を見たいと思ったが故に映画館に幾度も足を運んだのです。

==

 私は映画「コクリコ坂から」をこれまでに6回見ました。
 6回のうち4回は一人で行っています。
 自分でもなぜそこまでという気持ちはあります。

 最初見たとき一度感想を書いてこのブログに載せ、その後幾度か追記訂正をしています。
 6回も見に行った理由を自分で整理する意味から、改めて本映画を真正面から論じてみました。
 突っ込み所の多い、雑な感想であることは自覚しています。

 これを書くに当たって、「脚本コクリコ坂から」を買って読みました。
 感想に引用した登場人物の科白を確認するためです。
 しかし、映画では前後が入れ替わっていたり、追加削除変更されている科白も結構あるので、正確さのための資料としてはあまり意味がありませんでした。
 そのため、引用は自分の記憶に残っている印象そのままにしています。

 尚、この本は全体としては映画の内容とほぼ同じですし、駿監督の「企画のための覚書」など映画を理解するための情報もありますので、読んで意味がないということではありません。

脚本 コクリコ坂から (角川文庫)脚本 コクリコ坂から (角川文庫)
(2011/06/23)
宮崎 駿、丹羽 圭子 他

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 もう少しくだけた感想は以前書いていますので興味がありましたらお読み下さい。
   映画「コクリコ坂から」感想

 今回敢えて言及しなかった原作の感想も別に書いています。
   「コクリコ坂から」原作感想

 ついでに、手嶌葵さんのCDの感想もどうぞ。
   「コクリコ坂から」歌集感想


2011/9/24 追記

 昨日、23日にとうとう7回目行きました。
 これで同じ映画を劇場で観た回数としては「涼宮ハルヒの消失」に並びました。
 もしかしたら超えるかも。
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この記事に対するコメント

初めまして
7回(もしくはそれ以上)ご覧になったのですか!
私は6回みました。
もう少し上映期間が延びれば7回ということもありましたね。
映画の最高観賞回数はおよそ30回というのがありますが、これは別格。

評論やブログで学生運動と言われていますが、あれはただの「生徒会活動」みたいなもので、
政治性は全く無いことだと思います。
【2011/11/14 00:11】 URL | Shino #Uxrgve2U [ 編集]

Shinoさんへ
初めまして。コメントありがとうございます。

コクリコ坂は結局7回でした。
最後の金曜にも行きたかったのですが、一日一回昼間の時間だったので無理でした。

たまたまTOHOシネマズで低料金の実験をやっている時期だったので、大人1800円が1500円、シネマイレージ会員割引200円、ネット購入割引100円なので、1200円で見ることができたのも、何度も言った理由の一つです。

一回見るより二回目以降のほうが印象が強く残ることに気付いたこと、ここに感想を書くには一回では情報が乏しいと感じたことも大きいです。

>政治性は全く無いことだと思います

私も同感です。
脚本の駿監督にはその時代へのノスタルジーがあって、意図的に巧妙に隠しているという見方もできますが、それじゃあ面白くないですよね。

>30回

劇場でってことですよね。それはすごい。すご過ぎる。
子供が小さい頃にビデオでトトロを何十回見せられたか分かりませんが、それは居間で寝そべって見ているからであって、劇場の座席ではもう体力的に無理。w
コクリコ坂は尺が短いほうだからまだ耐えられました。ww
同じく7回行った涼宮ハルヒの消失は3時間弱の作品で、2月から8月まで半年以上期間があっても、6回目、7回目はなんでこんなきつい思いをして見てるんだろうって自分で呆れていました。


【2011/11/14 21:32】 URL | たか号 #- [ 編集]


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