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遅れてきた突っ込み
書きたいことは山ほどあるけど、暇がない。 だから、多分、どれも旬を過ぎた話題ばかりに なりそうなブログ。ここでのハンドルはたか号ですが、小説などはgatsutaka名で書いています。
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たったひとつの、ねがい。【入間人間】 感想
やられた!
分からなかった。
読み始めて2日目の夜、布団の中で読了してそのまま寝て、翌日起きて顔を洗いながら、その仕掛けの答えがようやくひらめきました。
つまり読了時点では「あれ? これ、どういうこと???」レベルだったのです。

第5章を読み終わったとき「シンプルな構成だな」と思いました。
「シンプル」という言葉は作者による「あとがき」にも出てきます。でもそれは私が感じた「構成」のことではなく「動機」のことです。
確かに動機は単純です。そして5章までの物語の展開も一見単純です。
それに騙されました。
目の前で恋人をむごい形で殺された主人公の「復讐」と、「痛い描写」が本作品のメインだと思っていたのです。
眼目は他にありました。まさかあんなことだったとは。

騙されたのは、「彼女を好きになる12の方法」の印象も影響しています。
12の方法にも私が全く気付けなかった別の眼目があったりして。
うー。なんか怖くなってきた。w 
 → その分かっていないかもしれない感想はこちら

痛い描写(この「痛い」は一般的な意味での痛いです)には「トカゲの王」で慣れているので問題ありませんでした。
慣れているというより、他人の痛みに鈍感なのかもしれません。

検索などでやってきて私のこの文章を今読みながら、「たったひとつの、ねがい。」(以下、本作)の内容を了解していない人はいないでしょう。
でも新着からとか、RSSからとか。奇特にもお気に入りからとかでここを開いた人で、本作をまだ読んでいない、内容を知らないという人には、悪いことは言いません、止めときなさい。

痛い作品です、熱い作品です、むこい作品です。
そして帯で作者が言うように「同情の余地はない」作品なのですから。


たったひとつの、ねがい。 (メディアワークス文庫)たったひとつの、ねがい。 (メディアワークス文庫)
(2012/11/22)
入間 人間

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ああ、このイラストを憐憫の情なしに見ることはできないなあ。

以下の記述には本作の核心部分、そして問題になるかも知れない私の感想が含まれます。(後半は多分、嘘w)
だから、久しぶりに Read More にしておきます。

2012/12/07追記有りです。
最初に読了した時点で、私のように「???」となった人はいるでしょうか。

いても数十人に一人かな。
そしてここを読む人も多く見積もっても数十人でしょう。
だからその一人のために書いておきます。

カバーイラストに描かれているカレーを食べている女の子は、4人のおっさんに生きたまま食べられます。
しかし、この陽子は主人公ダンタクヤの彼女ではありません。

本作の時系列はこうなっています。
1章→2章→3章→4章→5章→プロローグ→エンドロール

プロローグは発端ではありません。
5章とプロローグの間には数十年の時間があります。
言ってみれば、プロローグはこの物語の結末の一つであって、プレエピローグとでもしたほうがいいのです。

陽子と一緒にそうめんを食べて散歩に出かけ、拉致されたのは拓也であって、主人公のタクヤとは別人なのです。
陽子を食べた4人の中の車いすの老人がタクヤなのです。

タクヤが陽子を食べたのは復讐のためではありますが、それは自分の彼女が食べられたからではありません。
復讐したのは「自分が食べるつもりだったのに、邪魔されたから」です。

そりゃあ「同情の余地はない」ですよね。
同情すべきは拓也であって、タクヤではなかったのです。

また、2,3,4,5章で家族込みで殺され、子孫すら殺されてしまう水川、土方、風間、火口の4人は、読んでいる途中では憎むべき食人鬼でしたが、本当はタクヤに食べられそうになった親族の娘を救おうとしただけでした。
水川に至っては、放火魔による放火の結果タクヤが焼け死んだ(実際には死んでいない)ことを自分の罪と考える善良な人でした。むご過ぎる。

これで分かりましたか?
私に解説されるまでもなく分かるか。w
エンドロールを寝ぼけ半分で読んだからそのとき理解できなかったのかなあ。ww

==

本作の仕掛けはいつも以上に巧妙でした。
作品タイトル、イラスト、帯の言葉すらその一部になっていました。

読んでいる途中は、主人公が小さな子供を含む家族全員を皆殺しにすることの正当化が難しかったです。
いくら彼女が生きたまま食べられたからと言って、そこまでするか?
犯罪小説の中にはそういうのもありますけどね。
だから「同情の余地はない」なのだろうと思っていたのですが。

所々にヒントが含まれていました。
飼育という言葉とか、死体の処理はどうしたのかとか。
でも読み終わるまで分かりませんでした。
タクヤの怪我火傷についての警察の関与が描かれていないのも疑問でした。
なくて当然。あれは警察から見たら単なる放火事件なのですから。

プロローグと1章以降で主人公の口調が大きく異なることも気にはなっていました。
それは拓也とタクヤの違いだから当然なのですが、事件のせいで人格が変わったからだろうと思っていました。

入間さんは心理描写が巧みだけど、それ以上に情景描写が上手いんだなあ。
プロローグでの二人の出会いと同棲、プロポーズまでは、その後の展開に比べてまるで別の物語です。

会話の主がどっちなのか一瞬分からなくなるところ、そしてその会話をつなく部分の記述も絶妙です。
すらすらと読める文章と、理解しにくい文章のちょうど狭間にあります。
これぞプロの文章。入間作品を読む醍醐味の一つです。

羽澄の存在と結末への関与、赤佐婆さんの立場も読んでいるときには分からなかったなあ。
入間さんは婆さんが好きなのかな。w
赤佐婆さんは左門とキャラは似てても、人としては違いますけどね。

ちなみに私は「好きなものは半分残して途中で食べる派」です。w

==

2012/12/07追記部分

全体として振り返ったとき、本作品は評価に値するかどうかを考えてみました。
amazonのレビューは賛否が割れています。

私にとって小説を読むのは「楽しみ」のためであって、それ以上のことは読んだ結果としての余禄でしかありません。
人生とは何ぞや、人間とは何ぞやなんて考えて読んではいません。
普通、誰でもそうかな。だから純文学が売れないんでしょうけれど。

少し意味合いが違うのは古典を読む場合です。
あれは楽しみというより、教養を得るためと考えたほうがいい。
たまには楽しいものもありますけれどね。

痛さ、残酷さ、理不尽さ、そういったネガティブなものも楽しむ対象になり得ます。
だから「楽しみ」という意味では、本作品は十分に楽しかったです。

その上で、読み終わってもすぐには理解できない(泣)くらい巧妙な仕掛けが施してあったことは、巨大な余禄が付属していたとして最大限に称賛すべきことなのでしょう。

本作の仕掛けを「あざとい」とは思いません。むしろ「見事」と言っていい。

しかし。
うーん。このもやもや感は何だろう。

1章から5章にかけて感情移入して読んでいた主人公が実はプロローグの拓也ではなく別人だったことは、単純に「そりゃないよ」という感想をもたらします。

タクヤは拓也の人としての尊厳を三世代に渡って支配し、最後には食べてしまう極悪人です。
それどころか、拓也はタクヤがいなかったら生まれていないのです。
本当に食べるための家畜でしかない。
微塵の救いすらどこにもない。

これでは私が小説を読むときに普段考えていない「人間とは何ぞや」という考察を嫌が応でも頭をもたげてきます。でもその直後に引っ込めざるを得ません。
タクヤという存在を前にして、そんな考察は無意味だからです。

私はこの小説を楽しみました。
むごいと思うことも含めて。

しかし、このような小説を「楽しむ」ことができない人には最低の作品なのだろうと思います。

==

人食い(カニバリズム)はとても微妙なテーマです。
微妙というのは繊細という意味ではなく、扱いに大きな振れがあるということです。

現実の事件では、アンデス死の聖餐とか、佐川君の手紙とか、猟奇的な好奇心の対象と見なされがちです。

人間がヒトではなく人として社会で生きていく上で破ってはならないタブーが沢山あります。
時代や社会によって変化することもあります。

現代の最大のタブーはやはり殺人かな。
でも、毎日戦争や紛争で人が殺され、平和な社会でも殺人は絶えません。

カニバリズムは、殺人に比べてその発生の頻度が極めて少ないです。
それはタブーの程度が強いからではなく、「必要がない」からだと思います。
ただしこれは、飢餓の地で何があってるか知らないで書いていることなので、責任は持てません。

どこぞの国では、過去もそして現在でもその習慣があるという話があります。
現在の状況は知りませんが、あの国は何があってもおかしくないからなあ。
吉川英治版三国志にも記載があります。

一口に人食いと言っても、その目的は様々で、一緒くたに述べることはできません。
飢餓、習俗、宗教、狂気。
昔、南の島で行われていた人食いは、戦争と宗教的理由からでした。
アンデスの聖餐も根本は宗教です。(自殺が許されない)

実は文学作品の中にはカニバリズムを扱ったものが結構存在します。
私の本棚にもそれを集めたアンソロジーがあります。
少々の本好きではあまり手が出ない分野かな。
マンガにもあります。藤子不二雄さんのにも。手塚さんはどうだったかなあ。

小松左京さん、星新一さん、筒井康隆さんなどSF作家の座談会をまとめた「SF作家オモロ大放談」という本があります。
この中にもカニバリズムが出てきます。
大柄だったSF作家の広瀬正さんが亡くなったことを「あれを食わないで火葬したのはもったいなかった」と話しています。
これは趣味の悪い冗談としても、文学として考えるとき、カニバリズムはとても魅力的なテーマであることは間違いありません。

本作のタクヤは「狂気」に分類されるのでしょう。
作品中の雰囲気はバンパイアやオオカミ男的な扱いのようにも見えます。
だから、タクヤ自身には人食いに対する忌避感が全くありません。

それはそういう作品なのだから仕方ありません。
ついでで連れてこられて、本来その対象じゃなかったのに生きたまま食べられた陽子は憐れだけど仕方ないのです。(仕方ないで収めちゃったよw)

であるならば、注文を出すとすれば、陽子が食べられるシーンは、もっともっと官能的に描いてほしかった。
今の描写が良くないというのではありません。
入間さんの文章は素晴らしい。屈辱、痛み、絶望、理不尽が存分に描いてあります。
耐性がまだない中高生男子だったら、あの描写で官能に浸ってしまうかな。

食人、それも若い女性を裸に剥いて手足広げて拘束した上で生きたまま貪るのは、食欲というより性欲のカテゴリーですよね。

タクヤの食人はただの食欲らしいので、官能の要素が少ないのはこれまた仕方ないのかもしれませんけど。
それにタクヤが食べたかったのは陽子ではなく拓也だから。
プロローグは拓也視点ですしね。
すみません。単に贅沢を言っただけです。w

ここから、少し私にも狂気が入ります。

自分に当てはめて考えてみました。
人を食べることができるか。
状況次第なので、一概に述べるのは難しいですけれど。
騙されるなどして知らないで食べることは除外します。

人を殺すことはできません。今のところ殺したいほどの恨みを持つ相手はいません。
だから生きたまま食べるなど論外です。

極限の飢餓状態、救援が当面望めず、それしか食べるものがないときは、食べるかもしれません。アンデスの聖餐的な宗教的動機なしで、単に生き延びるためにです。
でもこれはその立場になってみないと分かりません。

食べる対象と一体化したいという願望はありません。その対象がいません。
いたら食べたいと思うかどうか。
生きているのなら、殺して食べることはしませんし、一部だけ食べることもしません。
髪の毛とか爪とか皮膚とかだったら、うーん。若かったらあり得るかも。
既に死んでいたら。これは微妙だなあ。

強要されたらどうか。
食べなければ殺すと言われ、その危機がMAXだったら食べるでしょう。
でもその相手が、(1)分からない場合、(2)分かるけれど知らない場合、(3)知っていて嫌な相手の場合、(4)知っていて好きな相手の場合で気持ちが随分違うと思います。

他に食べるものがあって、選択肢の一つとして人がある場合は、自分から進んで食べることはしません。

念のために言っておきます。
人を食べるのは、自分で殺していない場合でも、死体損壊として犯罪になります。
知らないで食べた、強要されて食べた場合でも、一応被疑者として捜査対象になるでしょう。

あれ? なんか、まともでつまらない結果になっちゃったかな。

上に書いたように、食人に関する妄想は、性欲に関する妄想と表裏とは言わないまでも、かなり近しい部分があるから、それを赤裸々に書けるほど壊れていないってことか。

ですよね。
男にとって、婆さんやおっさんを食べる妄想と、若い女性を食べる妄想は全く意味合いが違います。
前者は真剣に考える価値がないし、後者については文学的な価値はあるかもしれないけれど、それ以上に踏み込むとヤバい。
一応家族がいて、まともな社会生活を送っている私が、いくら匿名のブログとはいえ「ハァハァ、若い姉ちゃんのケツ触りたいぜぇ」と言うのと同じレベル、意味合いで「へっへっへ。若い姉ちゃんのふくらはぎに齧り付きたいぜぇ」なんて意思表明をできるはずありません。ww

本作がアニメ化、映画化、コミカライズされることはないでしょうね。
でもトカゲの王はコミカライズされたからなあ。
さて、次はトカゲの王4巻を読むか。

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この記事に対するコメント

初めまして、お初にコメントする者です。

『たったひとつの、ねがい』今日買ってきて読んだんですけど、私も一回読んだだけじゃわかりませんでした。
だから一回目の読了時点での感想は

『なんだこれ?』

でした。

そして、もう一回読み直して意味がわかった時の感想は

『なんだこれ……』

でした。

同情の余地なんざあったもんじゃない……ここまで主人公に共感したくない一人称小説が存在するとは。
【2012/12/25 00:05】 URL | #- [ 編集]

Re: タイトルなし
はじめまして。コメントありがとうございます。

やはり、私と同じ人がいましたか。
いやぁ、よかった。← 何がだ!w

あのカバーイラストに騙されて買った人も多いでしょうね。

私は入間作品は「取りあえず買う派」なので、カバーが何であれ読むんですけど。

あの内容、構成だったら、中途半端な救いがないことでむしろよかったのかなと思っています。
【2012/12/28 00:13】 URL | たか号 #- [ 編集]


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